2017年02月05日

<企業の社会的責任(CSR)>

 「企業の社会的責任」(corporate social responsibility)という言葉がマスコミなどで報じられるようになったのは今から14〜15年前くらいでしょうか。この頃に学生時代にバイトで一緒に働いていた人たちと同窓会のようなものをやったのですが、その席で誰かが口にしたのを覚えています。このように紹介しますと、僕の学生時代の仲間が社会に関心を持つ高尚な人の集まりのようなイメージを与えますが、決してそうではありません。僕は会社勤めをしていませんでしたが、ほかの人たちはみんなごく普通の会社員でした。ですから、仕事絡みの話をしているときになにかの弾みで出てきたに過ぎません。僕も含めた全員がノンポリでただただ遊びほうけていた学生でした。
 「ノンポリ」という言葉も「時代遅れ」だと思います。これは「ノン、ポリシー」を短くしたもので「ポリシーがない」ことです。「ポリシー」は「政策。策略。また、事を行う際の方針」と辞書に書いてありますが、つまりは「政治的な意思を持っていない」です。さらに「つまり」で言いますと、「遊びが大好きなただの学生」ということになります。
 そのような学生たちも社会に出て企業の中で中堅どころになりますと、それとなく小難しいことも頭の中に浮かぶようになっているようでした。僕は自営業でしたので会社勤めの人ように同年代の人と話をする機会がありませんでした。ですから、昔の友達からそのような言葉が出てきたことに驚いた記憶があります。
 ひとりぼっちの僕ですので「企業の社会的責任」について誰かと話し合うことはありませんでしたが、「社会的責任」という言葉には興味を感じていました。自営業者として社会に参加していたこともありますし、学生時代からノンポリではありましたが、漠然と「世の中の不公平なことや不公正なこと」に敏感だったことも関係していると思います。
 そのような僕が憤りを感じるニュースが先週はありました。コンビニ大手のセブンイレブンでアルバイトの学生のお給料から罰金として9千円あまりを天引きしていたニュースです。罰金の理由は、「代わりに出勤する人を見つけずに、欠勤したから」です。僕からしますと、雇用する側がこのような発想をすること自体が、社会的責任の欠如です。

 「なんで、欠勤するだけで罰金を取られなければいけないのか」
 
 大人の従業員に対してこのような対応をするのも不快ですが、高校生というまだ社会のことをなにも知らない大人になっていない高校生に対して行ったことに最も憤りを感じます。今回は親御さんが知ることで行動を起こしたから公になりましたが、もし親に相談しない高校生だったならそのままやり過ごされた可能性が大です。
 「そもそも論」になりますが、このお店の「仕事を休む際のやり方」に問題があります。基本的に「従業員がお休みを取る際に代わりの人を自分で探すことが義務になっていること」は企業の正しい姿勢ではありません。人員の調整をするのは経営者もしくは管理者が責任を負う業務です。ヒラ社員、間違ってもアルバイトがやるべき仕事ではありません。もちろん従業員の側が自らの意思で自主的に代わりの人を見つけようとする行為は、純粋に仕事をするうえで理想的な対応ではありますが、それを義務にするのは間違いです。
 しかし、管理をする側からしますと、従業員に責任を押し付けるほうが楽です。ですが、それは経営者もしくは管理者としての責任放棄です。経営者・管理者として失格です。
 このコラムで何回か書いていますが、「名ばかり店長」とか「名ばかり管理職」の問題の核心はまさにここにあります。つまり「名ばかり」の問題点は従業員に過大な責任を押し付けることによって経営者や企業が利益を上げようとする姿勢や考え方であることです。これでは従業員ばかりが損失を被ることになります。このような企業が健全であるはずがありません。
 以前、飲食系のあるフランチャイズ方式のチェーン加盟店が学生に業務のすべてを押し付けて大学にさえ通えなくなるように働かせていた事件がありました。このフランチャイズチェーンはそれ以前にも加盟店がニュースになるような事件を起こしていますので、フランチャイズで脱サラを考えている人は慎重に情報を集めることが必要です。
 今回の事件に関してセブンイレブンの本部が「加盟店に対して指導をした」との報道がありましたが、僕には違和感がありました。本部の指摘では「加盟店の対応は労働基準法に違反する」とのことでしたが、同じようなことを本部は加盟店に対して行っていると僕は思うからです。
 僕はフランチャイズの問題点を「テキスト(フランチャイズ考察)」や「NAVERまとめ」で情報を発しています。僕が一番問題だと思っているのはまさに「最も大変な部分を加盟店主に押し付けていること」です。「大変な部分」とは人員調整です。そして、それができずに休業したときは違約金まで徴収する契約になっています。もしこのような契約のやり方が直営店で行われていたなら、これはまさしく先にセブンの本部が指摘していた「労働基準法」に触れる行為です。僕が違和感を持つのを理解していただけるでしょうか。
 大手マスコミなどではあまり報じられませんが、今でも本部と加盟店の関係がすべて円滑に行われているわけではありません。トラブルになり裁判にまで発展している例もあります。僕は自分がフランチャイズで開業した経験からフランチャイズシステムに懐疑的です。
 コンビニ業界はフランチャイズチェーンの最も成功した事例ですが、もしフランチャイズ方式でなかったなら業界のこのような発展成長はなかったはずです。おそらく深夜の時間帯の人員不足や年中無休による人件費負担などが経営の足を引っ張っていたはずです。そうした大変な部分を加盟店に押し付ける方式だったからこその発展であり成長です。
 24時間年中無休を直営店で運営するのは大変です。すべての人員を自ら調達しなければいけないのです。記憶に新しいところでは、牛丼のすき家は深夜帯の人員不足で多数の店が閉店に追い込まれました。人の確保がどれだけ大変かがわかる事例です。
 昨年はコンビニ業界に最も貢献したと言われている鈴木敏文氏が退任しました。鈴木氏はコンビニのカリスマとまで言われ経営者として崇められていますが、真の意味で優れた経営者であったならセブンイレブンだけではなくイトーヨーカドーも成功させていたはずです。鈴木氏が成功させたのはフランチャイズ方式のコンビニだけです。そのことを指摘するマスコミやャーナリストがいないことも不思議な気がします。
 今の時代は格差社会と言われており、貧しい人とお金持ちの差があまりに激しくなっています。先日は「世界の最富裕層1%の資産が残る99%の総資産額を上回る」という記事が発表されました。これはどう考えても不公平です。資本主義が万能ではない証になるものです。このような万能ではない資本主義を正しい方向に導くのも企業の社会的責任のように思うのは、、、僕だけなのかな…。

 じゃ、また。

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posted by satoaki at 19:52 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月29日

<仲介者>

 昨今の政治状況に思いを巡らせていて思い浮かんだ言葉があります。「歴史に学ぶ」です。この言葉が頭に浮かびましたが、誰の言葉かはわかりませんでした。そこで調べてみますと、初代ドイツ帝国宰相のオットー・フォン・ビスマルクの言葉でした。
 名前だけは聞いたことがある政治家でしたが、検索をしたときに驚いたことがあります。言うまでもありませんが、検索結果で上位に入るのは並大抵のことではありません。検索結果を上位にすることを仕事にしている会社もあるくらいですから簡単ではありません。ですから、検索ランキングの上位に入るサイトというのはそれなりの工夫をしていることになります。
 「歴史を学ぶ」を検索したときに2位に入っていたのはなんとある新興宗教関連のサイトでした。僕が驚いたのはランキングもそうですが、それ以上に僕のような凡人で真面目な人が検索するような「堅いワード」が新興宗教で使われていることでした。
 社会を動かすうえで重要なな要諦のひとつであるに違いない「歴史に学ぶ」ことを新興宗教がキーワードとして主張していました。新興宗教がすべて悪いとはいいませんが、インチキまがいの、もしくは犯罪すれすれの新興宗教が存在する現代です。そのような状況で生きる上での指標になりそうな言葉を堂々と使っていること、そしてそのサイトが上位に入っていることに不安を覚えました。
 かつてオウム真理教という殺人まで犯していた犯罪集団インチキ新興宗教がありましたが、その信者には一流大学卒業生が幾人かいたことが衝撃的でした。経歴的には立派な大人までもが殺人集団の教祖を妄信していたのですから信じられなかった記憶があります。今回「歴史に学ぶ」を検索して新興宗教関連サイトがランキング上位に入りましたが、このようにして新興宗教というのは成長していくのかもしれません。

 話を戻します。
 「歴史を学ぶ」は初代ドイツ帝国宰相のオットー・フォン・ビスマルクの言葉でしたが、正しくは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」だそうです。しかし、この文章も要約したものにすぎず、もっと正しくは
「 愚者は自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。 」
だそうです。さらに「しかし」を付け加えますと、この文章もドイツ語を日本語に翻訳したものにすぎません。翻訳者の気持ちが含まれていることになります。
 最近のニュース番組でトップを占めるのは、やはり今の時期ですとトランプ氏の言動です。トランプ氏の一挙手一投足を事細かに伝えていますが、その視点は批判的な角度からのものがほとんどです。
 誰の言葉かは記憶が定かではありませんが、あるラジオ番組でジャーナリストがトランプ大統領の記者会見の様子を伝えるときのテレビの対応について興味深い話をしていました。もちろん会見は英語ですので画面の下に日本語の翻訳がテロップで流れますが、トランプ大統領が話す「you」を「おまえ」と訳していることについてです。これを「あなた」と訳すか「おまえ」と訳すかで印象がかなり違うとの指摘でした。
 今はどのようになっているかわかりませんが、僕が中学生時代は「技術家庭」という授業がありました。そして、その授業を担当していた先生は正規の先生ではなく、30代半ばの男性講師でした。今ふうに言いますと、非正規先生ということになります。その先生は授業中に科目とは関係のない話をよくしていたのですが、その中で最も印象に残っている話があります。

「英語は日本語と違って、相手がだれであろうと【あなた】を意味する言葉はひとつしかないんだ。貧乏な人であろうと大統領であろうと相手を呼ぶときは【you】だけなんだよ。だから、英語は平等なんだねぇ」

 やけに僕の心の中に落ちた解説でした。自己啓発の本とか成功者の話ですと、ここから「それがきっかけで、僕は英語を猛勉強した」となるのですが、凡人である僕はそのような展開にはならず、「へぇ〜、そうなんだ」で終りました。
 それはともかく、このジャーナリストの指摘から想像しますと、やはりマスコミメディアはトランプ氏のイメージを「悪」の方向へ持っていこうとしていることになります。発する言葉が「あなた」より「おまえ」のほうが見ている人に柄が悪い印象を与えます。
 翻訳と言いますと、外国映画の字幕をすぐに連想しますが、字幕翻訳の大家といいますと今の時代は戸田奈津子さんです。米国から有名な俳優が来ますとインタビューのときに俳優の斜めうしろに背後霊のように立っている眼鏡をかけた中高年の女性を見かけることがありますが、あの方が戸田さんです。トム・クルーズさんやジョニー・デップさんなどが来日するときは必ず戸田さんが通訳をしています。
 その戸田さんの記事を最近目にすることが多いのですが、戸田さんの「字幕の作り方」、これはある意味「翻訳の仕方」でもありますが、その適切性について議論が起きているからのようです。
 つまり、「正しくない翻訳」という批判になりますが、誤訳の指摘には確かにどう見てもふさわしくないと思える訳がありますが、戸田さんの反論にも理があるように思います。
「スクリーンという限られた範囲の中で【映像の邪魔にならず】【画面に合ったスピード】で【ストーリーに適った】翻訳をするのが字幕の最も重要な使命である。見終わったあとに字幕を読んでいたことを覚えていないのが字幕の理想のありかたである」
 「you」が「あなた」にも「おまえ」にも「きさま」にも「あなた様」にも「貴殿」にも当てはまるのですから、その場面場面で最も適した日本語を選ぶのが翻訳者の腕の見せ所というわけです。
 このように字幕を作るときにどのように翻訳するかはとても大きな要因です。英語の世界と日本人の橋渡しをするからです。ニュアンスを少し変えるだけで意味が全く変わることさえあります。同じことがマスコミメディアの世界でもいえます。
 世の中で起きていること、特に政治の世界で起きていることをどのように伝えるかはとても大切です。メディアの考え方や姿勢によって事実がいろいろなふうに見えます。僕たちはそのことを留意したうえでマスコミメディアを利用する必要があります。仲介者の役割はとても重要です。

 じゃ、また。

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posted by satoaki at 20:05 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月22日

<ファースト>

 僕は毎日大手スーパーのフードコートに妻と出かけることを日課にしています。実はなにを隠そう、僕の夫婦の理想の姿は「夫婦は常に一緒にいること」と思っているからです。僕がサラリーマンを辞めて商売を選んだ理由のひとつにもそれが当てはまりますが、「なぜ結婚するか」といいますと「一緒にいたいから」がシンプルな理由です。「一緒にいたい」のでなければ、わざわざ結婚する必要はありません。恋人や親しい友人としての関係を続けていればよいのです。そうではなく、結婚という形をとるのは単純に「一緒にいたいから」です。というより「一緒にいたいから」でなければなりません。「must」です。
 僕はテキストを幾つか書いて公開していますが、その中で毎日読まれているテキストがあります。自慢話になって申し訳ありませんが、「あなたはこうやってラーメン店を失敗する」と「あなたはこうやって結婚生活に失敗する」です。
 僕はgoogleのadsenseをやっていますが、これらテキストから少しだけ収入を得ています。adsenseを始めて10年くらい経ちますが、ピーク時に比べ現在は1/3くらいに減っています。理由は閲覧者の端末が変わったことです。以前はPCで読まれることがほとんどでしたが現在はスマホに取って変わられています。
 そしてスマホに表示される広告はPCに比べ単価が低くなっています。それが収入が減少した理由のようです。「ようです」と曖昧なのは自分でも正確には理解していないからです。なにしろgoogleはとっつきにくいですから。
 そのadsenseが昨年末に分析結果の画面を変更しました。それによってどのテキストがクリックされたのかがわかるようになったのですが、それでわかったのが「あなたはこうやって結婚生活に失敗する」が僕が思っている以上に読まれていることでした。僕は、「・・・ラーメン店に失敗する」が読まれていることは予想していましたが、「・・・結婚生活に失敗する」はほとんど読まれていないと思っていました。それが意外にも読まれていることがわかり、ちょっと驚きました。
 それはともかく僕は毎日妻とスーパーのフードコードに行っているのですが、「毎日」は大げさではありません。おそらく僕たち夫婦は店長や従業員や駐車場の誘導員の人たちよりもスーパーに通っていると思います。僕の記憶では昨年も365日のうち360日は行っていると思います。なにしろ行かなかった日が思い出せないのですから360日は少なく見積もった数字です。因みに、このスーパーのフードコートができるまでは週に2〜3日マックにコーヒーを飲みに行っていました。
 さて、このように毎日フードコートに行っているのですが、最近気になることがあります。それはフードコートの利用者についてです。フードコートは自由に誰でもが使えることになっています。飲食物を持ち込むことも認められていますので店内で購入したパンや総菜、お弁当などを広げて食べている人もいます。もちろんフードコートの周りにはファーストフード店やアイスクリーム店、牛丼店、ラーメン店などがありますのでそれらの食べ物を食べることもできます。
 このようにフードコートという場所はその名前の示すとおり「飲食をする」のが基本的な使い方です。ところが最近は飲食とは全く関係のない使い方をしている人を目にするようになりました。
 先に書きましたように、フードコートの周りには飲食店がありますので、ときにはそれらの店舗の責任者が面接をすることもあります。それは向かい合って座っている二人の雰囲気や態度で想像がつきます。そして、そうした利用の仕方もある意味当然のように思います。
 ところが、最近はフードコートの店舗と関係があるとは思えない雰囲気の人たちが利用する姿を見かけるようになりました。そして驚くべきことに、そこで数人が集まり会議らしきものまでを行っているのです。わざわざ机と椅子を移動させて会議にふさわしい並べ方にまでしています。
 面接であるなら、なんとなく理解できます。フードコートの店舗の責任者も行っていますのでスーパーの近くの会社で面接の場所が確保できない場合などは格好の場所といえなくもありません。また、面接の延長線上のものとしてセールスマンが顧客に対して商品説明をしたり契約をするのも理解の範囲に入ります。ですが、その場合も一人対一人、最大に譲っても一人対二人までです。それ以上ですと、理解の限度を超えています。さらに会議となりますと、限度を超えるどころではありません。不適切です。フードコートは会議を行うのにふさわしい場所ではありません。
 理由は、フードコートのほかの利用者に対する配慮に欠けています。スーツ姿の男性が机や椅子を動かして特別な空間を作ることはほかの利用者の居心地を悪いものにします。最悪の例は会議が終わったあとに机と椅子を元に戻さないことです。
 そもそも論になりますが、会議という重要な話し合いを周りに筒抜けの状況で行うことに疑問を感じます。また、そのような状況で中身のある有意義な話し合いなどできるとは思えません。僕からしますと、そうした姿勢で仕事に臨む企業は三流の企業としか映りません。今の時代は情報保護がとても重要な要因ですが、その意味でも企業として失格です。
 このように企業としてあるまじき行為をなんの疑問も持たずに行ってしまうのは自分のことだけを考えて周りが見えないからです。視野が狭いからです。もし、第三者の視点を持てるなら自らの行為を不適切と感じるはずです。自分の会社にとってだけ得することを、または損を被らないことだけを考える発想が根本にあります。フードコートで会議を行いますと会議室を借りなくて済みますからコストがかかりません。ただ自社の利益だけを考えた行動です。今ふうの言葉で言うなら「自社ファースト」ということになります。

 先週のトップニュースはなんと言ってもトランプ氏が大統領に就任したことです。予てより報道されていましたが、反対派のデモなど米国が分断されているようです。支持率もこれまでの最低で40%台だそうです。そのトランプ氏は「米国ファースト」を声高に主張しました。なにを差し置いても「米国を一番に考える」ことを重要な政策に掲げました。
 細かく考えるなら「米国ファースト」の「米国」がどういった人たちを意味するかが問題です。トランプ氏が考える「米国」は白人のかつての中流階級のようです。しかし、トランプ氏の政策の裏返しとして移民差別や人種差別、女性蔑視などがあります。トランプ氏を批判している人たちはそのことに憤っています。
 米国内における白人偏重主義も問題ですが、さらに世界に目を向けるなら「米国ファースト」は「米国さえよけれがそれでよい」という発想が透けて見え、世界を不穏な空気にさせるものがあります。
 テレビである評論家がトランプ大統領の演説はヒットラーが台頭してきたときの演説に似ていると指摘していました。言われてみますと、確かにヒットラーが登場したときのドイツは第一次大戦の敗戦により世界から賠償金などを負わされていて疲弊していました。そのような社会状況で国民の不満を代弁する演説はまさしく「ドイツファースト」といえるものでした。そして、世界大戦へと発展していきます。
 今、欧米ではいろいろな国で自らの国を「ファースト」にする発想が席捲しています。英国の離脱もそうした発想が背景にあるようですし、各国で移民排斥を訴える政党が伸張しています。トランプ大統領の政策のひとつである保護主義も「ファースト」そのものです。保護主義も世界大戦に至った要因のひとつです。
 現在のような世界を取り巻く不穏な空気はやはり戦争を想起してしまいます。戦争がいけないことは誰でも知っていますが、知らぬ間に突入しているのが戦争という悪魔です。人間は「世界ファースト」という気持ちにはなれない生き物なのでしょうか。

 じゃ、また。
 

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posted by satoaki at 19:38 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月15日

<理想と現実、本音と建て前>

 元リクルート社員で役員まで上り詰め、その後公立中学校の校長を務めた藤原和博さんという方がいます。東大卒という経歴もあり一時期テレビなどにも頻繁に出ていましたし、本などもたくさん書いています。また校長時代は授業に「よのなか科」という科目を導入したことでマスコミから注目されたこともあります。
 その藤原さんがラジオで「新聞なんか読まなくていい」と話していました。ちょっと意外な感じがしましたが、藤原さんによりますと、

”””””””””””””
「新聞をとるのを止め、テレビを居間からどけると、世の中が見え てくる」
 
 「新聞の報道をそのまま事実として受け取ったり、キャスターの 勝手な解釈を自分の意見であるかのように勘違いしてしまう情報  過食症症候群が治る」
 
 「メディアが作り出すバーチャルリアリティから逃れて、自分自身  が生きているリアリティを取り戻すことができる」

 「そして何より、自分の人生について考える時間ができる」

 「日本で一番支配的な宗教は、神道でも仏教でもキリスト教でもない。明らかにテレビ教であり、新聞教だ」

””””””””””””””””

 いわれてみますと一理あるような気がします。しかし、世の中で起きていることを知る手段や機会が減ってしまうような気がしてきますが、その点はどうなのでしょう。もしかすると、「今の時代は」という前置詞がつくのかもしれません。もし、そうであるならば今の時代は世の中で起きていることをネットで簡単に知ることができます。また、いろいろな立場や考えの人の意見を知ることができます。新聞は価値がなくなったのでしょうか。
 以前、新聞の未来について分析・予想している本を紹介したことがありますが、その著者は元新聞社の幹部の方でした。新聞の発行部数が減少傾向にあるのは間違いありません。実際、我が家を担当する新聞販売所は年末で閉鎖され近隣の販売所と統合されました。僕のような中高年の人は新聞を読むことを趣味のようにしていることもありますが、もっと若い年代になりますと新聞に価値を見出せないかもしれません。
 というわけで、今の心境は新聞の購買の是非について悩んでいる状態です。でも、きっかけはほんの些細なことでして、新聞の後片付けを面倒に思うようになったことです。いつも新聞はテレビの下に無造作に置いてあり、下手をすると数日分が溜まることがあります。古い新聞の置き場所は違うところなのですが、毎日そこにしまうのが面倒に思えたわけです。
 これがパソコンですと、新聞のように場所をとることがありません。また、いろいろな新聞を見ることができますので、異なる意見や立場の違う人の考えを知ることも容易です。これまでのメディアは価値がなくなったのでしょうか。
 トランプ氏の記者会見をニュースで見ましたが、自らに批判的なメディアに対しては徹底的に無視する態度をとっていました。僕が気になるのは、トランプ氏のこうした対応に対してメディア界が一体となって抗議の姿勢を示さなかったことです。マスコミメディアの役割は権力を監視することなのですから、特定のメディアが無視されようとするならマスコミメディア界全体で抗議をするのがマスコミメディア界の義務のはずです。マスコミメディア界の先進国であるはずの米国がこの様では今後が不安になってきます。
 トランプ氏の主張の特徴はベルト地帯と言われる地域の人たちの本音をあからさまに発言することです。そのトランプ氏の発言に対して注意を喚起する意見を耳にしました。これは幾人かのジャーナリストの方が期せずして同じことを話していたのですが、
「人間はわがままな生き物だから、本音を主張する行為は危険で、それを倫理感で蓋をするのが人間社会である」
 いわゆる「性善説、性悪説」の性悪説をとっているわけですが、欧米の難民に対する最近の対応や英国のEUからの離脱、また今回の米国大統領選の結果の根底には性悪説が潜んでいるように思えます。本音とは「自分だけが得をしたい」という感情です。倫理観とは建て前と言い換えることもできます。「理想はそうだけど実際は無理だよね」の理想を目指す気持ちが建て前です。
 人間が本音だけで生きるようになってしまっては、対立や衝突が起きるのは目に見えています。過去の歴史が証明しています。本音で話すことは気分を高揚させる働きがありますのでポピュリズムになりやすい傾向があります。しかし、気分が高揚した状態でものごとを決めることはとても危険です。世の中にはいろいろな人がいてその全員に健全に生きる権利があるからです。
 ですから本音をあからさまに表に出すのではなく、婉曲的に本音を建て前でオブラートして話し合いをスムーズにすることが大切です。そのような知恵を出すことこそ人間である証拠になります。しかし、現在の世界の流れは本音でものごとを解決していこうとしているように映ります。

 僕が学生時代、まだ世の中のことなんかなにもわからずただ楽しいことだけを求めていたとき。国際関係論という学生200名ほどが入る大きな教室で授業を受けていました。その教授は試験前に自分が書いている本に書いてあることを試験に出すことで有名でした。つまり、単位を取得するには教授の本を買う必要があるのでした。実際に、本を買ったかどうかは記憶は定かではありません。
 これほど大きな教室での授業ですので、後ろのほうの席で寝ているのが常でした。しかし、なぜか不思議と教授が「パワー オブ バランス」と言ったのが耳に入ってきました。顔を机にうつぶせて寝ていたその耳に入り込んできたのです。
 僕は顔を上げて教授をほうを見ました。教授は大きな机を前にして椅子に座って話していました。そして、こう言いました。
「世界の平和は軍事力のバランスで成り立っている」

「へぇ〜、言われてみればそうだよな」

 僕が初めて国際関係に興味を持った瞬間です。別にだからと言ってそれ以降勉学に励んだわけではないのですが、「パワー オブ バランス」が脳のシワに刻み込まれました。
 オバマ大統領が退任の演説をしている映像を見ました。よくよく考えますと、黒人でありながら米国の大統領にまで上り詰めたのですから、ものすごい快挙でした。しかも2期8年も務めたのですから画期的なことでした。ある意味、そこが米国の素晴らしいところです。チャンスは誰にでも平等に開かれていたことになります。
 オバマ大統領の言葉を借りるなら米国の魅力は「多様性」であり「寛容さ」です。米国は移民を積極的に受け入れることで活力を発揮できたとオバマ大統領は語っています。トランプ新大統領はその魅力を手放そうとしているように見えます。理由は、移民によって米国人の仕事が奪われるからです。これは米国人の本音ともいえます。かつては、その本音を我慢して米国の魅力である寛容さを見せる建て前がありましたが、それがなくなってきているようで不安です。
 オバマ大統領は核兵器をなくすことも目指していました。しかし、現実は理想を駆逐してしまいました。やはり、現実は理想通りにいくほど甘くはありませんでした。それでも僕は思います。理想と建て前を手放してしまえば、それは人間をやめることと同じになってしまいます。
 そういえば、昔こんなキャッチコピーがありました。

「人間やめますか? 薬やめますか?」

「人間やめますか? 戦争やめますか?」

 じゃ、また。

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posted by satoaki at 19:40 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月08日

<2度あることは3度あった>

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 皆さんの年末年始はいかがでしたでしょうか。僕は例年のように年末は大掃除をして、お正月は家族ボーリング大会を催し、それから初詣に行きました。ボーリング大会はこれまたいつものように親組が子供組に勝利し、無料でボーリングを楽しむことができました。僕は数少ないサラリーマン時代に会社でのボーリング大会で優勝したこともあるほどの腕前ですので子供組に負けた記憶がありません。正月早々、自慢話でした。

 昨年の最後のコラムで交通違反について報告しましたが、年末年始は自動車関連のトラブルが続いてしまいました。昔から「2度あることは3度ある」といいますが、まさにそのような結果になってしまいました。
 1度目は昨年の交通違反です。そして2度目は車の後席のスライドドアが社内側から開かなくなってしまったことです。運転席にある後部座席用のスイッチや外側からのスイッチでは開くのですが、内側からだけ開かなくなってしまいました。
 心当たりといいますと、年末に行った洗車です。洗車と言いましても手作業で行うのは疲れますので機械でやるアレです。外側は機械でやりますが、車内は妻と二人で雑巾などを使いきれいにしました。
 やはり考えられる原因は洗車をしたことです。その際に水かなにかが中に入った可能性があります。もしそうでないなら年式の古い車ですので電気系統が故障している可能性もあります。普段ですと日ごろ懇意にしている整備工場に問い合わせるのですが、年末年始のお休みに入っていました。仕方なく様子をみることにしました。
 僕は生来なにかが壊れるとそれを自分で修理したくなる癖があります。妻との仲もこのようにして直してきました。それはともかく、あくまで「なんとなく」ですが、どんなものでも自分で直せるような気がしてくるから不思議です。今の車のひとつ前の車のときは運転席と助手席の電動ガラスの開閉ができなくなったことがありました。このときもドアの内側のスイッチの部分をネジの隙間から見ましたら接触が悪いように思えました。言うまでもありませんが、僕は車のことどころか電機関連について全く知識がありません。しかし、不思議なことに直せる気がするのでした。結局、スイッチの箇所のネジを外し接触する部分を修理して開閉を直すことができました。自分でも不思議です。
 今回の場合もやはり挑戦したくなりました。しかし、今回の場合は前回の電動ガラスよりもかなり大掛かりになりそうでした。なにしろドアの中を点検する必要があるのですから簡単ではありません。素人がスライドドアのカバーを外すのは不可能と考えるのが普通です。
 しかし、今はインターネットの時代です。ほとんどの情報がネット上に溢れています。なんとなく直せるような気がしました。僕は電動スライドドアの故障について検索しました。すると、やはりあるんですねぇ。本当にネットは便利です。
 車種から調べていきますと、電動スライドドアの故障について事例などが記載されていました。素人が修理をする際に大切なことは、「単純なこと」から試していくことです。専門的なことはできるだけ後回しにするのが素人が機械類を修理するときのコツです。
 修理をするときに最初に考えなければいけないのは故障する前に行ったことです。故障する前に「なにをしたか」を思い出すことが重要です。そこで思い返しますと、電動スライドドアが内側から開かなくなったのは洗車をしてからです。先に書きましたように、最初に連想したのはお水などが機械類の中に入り込むことです。
 その可能性はありますが、それが原因と確定できたわけではありません。ほかの可能性もあります。それは、僕や妻が気が付かないうちに電気系統のなにかの部分に触れた可能性です。確実なのは故障する前に「洗車をしていた」ことだからです。
 ネットで調べますと、「チャイルドロック」という言葉に出くわしました。これは子供がいたずらで電動ドアを開けることがないように「ロック」をする機能です。ネットのマニュアルにはそのボタンの位置が記載されていました。それまでその部分は見逃していました。僕は車に確認しに行きました。すると、どうでしょう(アフタービフォーの感じで読んでください)、ボタンが「ロック」の位置になっているではありませんか。このロックを解除して故障は解消されました。
 こうして2度のトラブルがありました。そして、いよいよ3度目のトラブルが休み明けにおきました。
 僕はいつも車の中で妻が作ってくれたお弁当を食べているのですが、食べ終わったあとのことです。午後の仕事にとりかかろうとしたときにエンジンをかけてもセルが回らないのです。焦りました。車について素人ですので、こういうとき本当に焦ります。
 何回もためしたり、しばらく時間をおいてエンジンをかけたりなどいろいろとやりましたが、結果は同じでした。冬の時期の故障ですぐに思い浮かぶのはやはりバッテリー上がりです。かなり昔ですが、バッテリーが上がった経験がありますが、そのときの感じとは違っていました。僕が経験したバッテリー上がりはキーを回すとだらしなく「クスン、クスン」といかにもエネルギーが足りないようなセルの回り方でした。しかし、今回はセルが回る気配が全くなく、ただ「カ、カ、カ、…」といった感じになるだけでした。
 20分ほどいろいろと試しましたが、結局ロードサービスを利用することにしました。この日のために会費を支払っているのですから利用するほうが賢明です。
 因みに、僕はロードサービスは出光のサービスに加入しています。JAFは年会費4千円ですが、出光は年会費750円ですのでお得です。最近は自動車保険でも無料でロードサービスが付帯していることが多く、実は僕もそれを利用できます。しかし、僕の加入している自動車保険のロードサービスは年間1回しか利用できない規定ですので別に加入しています。
 30分ほどして担当者が来ましたが、原因はバッテリー上がりでした。僕の予想は外れてしまったわけですが、担当者の方はエンジンをかけた際の音を聞いてすぐに理由が分かったようでした。
 担当者の方に「バッテリーの交換」を勧められ、たまたま近くにあったオートバックスも教えてくれました。結局、オートバックスでバッテリーの交換も行い、その後の仕事も無事に終えることができました。
 このようにして「2度あることは3度ある」の3度目が終わりました。これで車のトラブルが終わってくれることを願っています。今回は故障した場所が広めの道路で端に止めていましたのでほかの車に迷惑にならなかったのが不幸中の幸いでした。

 それでは、今年もよろしくお願い申し上げます。
P.S タイヤの交換時期が気になりだしている新年です。

 じゃ、また。

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posted by satoaki at 19:30 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月25日

<隣の空>

 クリスマスにプレゼントをもらわなくなってかなり年月が経ちますが、そんな僕が24日のイブの日にプレゼントをもらいました。しかも、できたら欲しくないプレゼントでした。
 その日、車の荷台の使い勝手をよくするためにホームセンターで木材を買い込み帰宅する途中でした。そのときに「一時停止を怠った」という理由で違反切符を切られてしまったのです。とんだクリスマスプレゼントでした。
 もちろん反論はしましたが、「一時停止」は「止まった」か「止まらない」の感覚の差ですので、結局は水掛け論になります。僕は、このようなことで時間を取られることを無駄と考えるタイプですので少しばかり自分の意見を主張したあとお巡りさんの主張を認めることにしました。
 交通違反は実に久しぶりです。前回がいつだったか全く思い出せないのですが、免許はゴールドになっています。ということは少なくとも5年以上は経っていることになります。交通違反で悲しいのはやはり自動車保険料のゴールド免許割引が適用されなくなることです。
 しかし、僕は自動車保険の期間を3年に設定しており、昨年更新したばかりですのでゴールド割引があと2年半くらい適用されます。3年にしておいてよかったです。読者の皆さんもゴールド免許になっているなら契約期間を長期にしておくほうが得です。但し、なにかしらの理由で途中解約する際に手数料が発生しますのでそのことは留意しておきましょう。

 さて、今回が今年最後の<私のココロ>となります。個人的に一年を振り返りますと、やはり還暦を迎えたことが一番のできごとです。おそらく同年代の多くの人が僕と同じ感想を持っていると思いますが、自分に対して「へぇ〜」という思いです。この「へぇ〜」にはいろいろな気持ちが込められています。
 僕はサザンオールスターズの桑田さんより一才年下なのですが、その桑田さんがソロで出した楽曲に「真夜中のダンディ」という歌があります。この歌は人生について歌っているもので、自分自身をも見つめています。アーティストとして成功したあとの浮かれた気持ちを戒めてもいるような歌詞です。成功している自分に対してどこか反発している感じが伝わってきます。
 その歌詞の中に次のような一節があります。

♪愛と平和を歌う世代がくれたものは
♪身を守るのと知らぬそぶりと悪魔の魂
♪隣の空は灰色なのに
♪幸せならば顔をそむけてる

 僕にはこの歌詞は僕たちの世代より一昔前の世代を批判しているように聞こえます。マスコミなどでは昔から世代を端的な言葉で表すのが通例となっていました。僕たちの世代は「モラトリアム世代」と命名されていましたが、僕たちの一世代前の世代は「団塊の世代」と言われていました。またちょうどその世代は学生運動が盛んな頃で一部の過激な人たちを全共闘世代とも呼んでいました。
 桑田さんが団塊の世代を批判したのは、学生時代に「世の中を変える」と社会を批判し活動していたにも関わらず、社会に出た瞬間に社会に迎合したからです。実は、僕も同感です。
 「隣の空は灰色なのに」「自分が幸せならば顔をそむけてる」、この歌詞は秀逸です。今の時代は口先では正義感ぶったことを言っていても行動が伴っていないことが数多あります。いじめや差別、そして格差社会などがそれを物語っています。
 正規社員と非正規社員の格差は目に余るものがありますが、その根本には正規社員が自らの権益を守りたい気持ちがあるからです。「隣の空は灰色」なのに「顔をそむけて」いる最もわかりやすい例です。
 数週間前ですが、日教組の会長が不倫問題で会長を辞任しました。日教組とは教職員の労働組合ですが、そのトップがこのような失態を犯しているのですから昨今の労働組合の実態がわかろうというものです。労働組合は労働者のための組織ではなくなってきています。
 先週、NHKで吉田拓郎さんの特集番組がありました。言わずとしれた拓郎さんは団塊の世代のヒーローです。拓郎さんが最も輝いていたのは1975年にかぐや姫と行った「つま恋」での大規模なコンサートのころでしょうか。拓郎さんは日本の音楽界で伝説となるひとりですが、その拓郎さんも番組では年齢を感じさせていました。
 全盛期の拓郎さんはマスコミ嫌いで通っていましたが、番組のインタビューでその理由を話していました。当時、テレビ局の人たちが指輪をはめ髪の毛をオールバックにするなどチャラチャラしていたことが理由だったそうです。広島から上京して「東京の者に負けてたまるか」という思いが根底にあったとも話していました。
 拓郎さんの特集番組が放映された日、深夜に小田和正さんの2時間番組も放映されていました。こちらのほうは寝てしまったのでほとんど見ていないのですが、宇多田ヒカルさんが出演したそうです。この番組は毎年クリスマスの頃に2時間という長時間の枠を持っているのですが、小田さんのファンにはたまらない時間に違いありません。
 この番組はなにがすごいかといいますと、16年間続いていることです。僕も始まった当初は毎年見ていましたが、次第に見なくなってしまいました。年齢とともに「飽き」を感じるようになったのが理由です。
 僕は見なくなってしまいましたが、16年も続くということはそれなりの視聴率が取れていることになります。どんなに素晴らしい番組であろうとも最終的にはスポンサーにかかってくるのが民放の宿命です。
 スポンサーという縛りがありながらテレビ局が小田さんを説得したのは「良質な音楽番組を作りたい」という確固たる信念があったからではないでしょうか。また、それくらいの強い意志がなければ小田さんの承諾を得ることはできなかったはずです。小田さんも拓郎さん同様に容易にテレビ出演しないアーティストでした。
 拓郎さんや小田さんに限らず、この年代のアーティストの人たちは社会にメッセージを発していたように思います。それは哲学的なことであったり時事的なことであったりしていましたが、根底には口幅ったい表現ですが、平和や平等な世の中を目指す気持ちがあったように思います。
 なのに、世の中が平和にも平等にもならずに現在まで来ています。その理由は「隣の空」に鈍感だからです。いえいえ、見ないふりをしているからです。マザーテレサさんも言っていました。

「愛の反対は憎しみではなく無関心です」

 トランプ氏は人間が心の奥底に持っているパンドラの箱を開けることで人々の支持を獲得してきたように思っています。人は誰でもほったらかしにしておきますと、欲望に導かれるままに業の塊になってしまいます。そうした業を抑えているのが弱者に対するやさしさであり思いやりであり、心遣いです。困っている人や苦しんでいる人がいたなら手を差し伸べるのが人間と動物の違いのはずです。
 来年は世の中の雰囲気が「隣の空」に関心を持つような年になることを願っています。

 じゃ、また。来年〜!。
 一年間ありがとうございました。

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posted by satoaki at 20:14 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月18日

<若者と年配者>

 今年の流行語大賞は「神ってる」に決まりましたが、僕の中で最も記憶に残った言葉は「ブラック企業」です。この言葉自体は今年ではなく数年前に登場した言葉ですが、今年は「ブラック企業」に関するニュースが多かったように思います。
 それを最も象徴しているのが電通の女性社員が過労死した事件の報道です。従業員を使い捨て部品のように扱っているかのような企業がたくさん存在することに憤りを感じてしまいます。
 これに関連するニュースが先週ありました。「ユニクロ帝国の光と影」という本を書いた横田増生氏という作家がユニクロを解雇されたというニュースです。報道によりますと、横田さんの著作に対してユニクロ会長の柳井氏が「現場で働いたこともない知らない人が書いた本で、実際に働いてから書いてほしい」というような内容を述べたそうです。それを受けての横田氏の入社でした。もちろん偽名で入社しています。
 横田氏が解雇された理由は表向きは「就業規則違反」ですが、誰が考えても本当の理由はユニクロでの就業体験を週刊誌でルポルタージュしていたことです。やはり、社内での労働状況および環境を世の中に発信されるのは不都合があるようです。結局、「実際に働いて」などというセリフが口先だけだったことになります。
 そういえば、僕が移動販売をしていた頃、毎週火曜日にお弁当を食べていた公園でユニクロで働いている青年と知り合いになりました。その青年はいつもその公園で昼食を食べたいたようで、僕が公園に行くようになってから話しかけられたのが親しくなったきっかけです。
 その青年はフリーターから契約社員になったそうですが、「頑張れば正社員になれる」と話していました。しかし、仕事内容はかなり厳しそうで「辞めるかも」と不安な気持ちも吐露していました。
 これまでのユニクロに関するマスコミ報道から鑑みますと、ユニクロでの仕事が楽ではないことは想像できます。普通に考えて、早出やサービス残業などは常態化していたでしょう。
 7〜8年前ですが、配送の仕事をしていたとき早朝7時ころに渋谷の商店街に行っていました。その商店街の中にユニクロと同じような業態の店舗がありましたが、7時前から社員が出社して仕事をしていました。開店時間は10時ですから、かなり早い出社ということになります。基本的に小売業は給与がそれほど高くはありません。そうしたことを踏まえますと、早出の分まで給料を払う余裕などはないはずです。おそらくサービス早出でしょう。
 同じころのことですが、大手ファーストフード店が「名ばかり店長」という実態で批判されました。今では「名ばかり管理職」などという言葉もありますが、要は残業代の支払いをなくすことが目的で管理職に昇進させることです。
 先日のニュースで固定残業代という制度について報じられていました。この制度は働く側からしますとかなり損な制度です。どんなに定時時間外に働いても残業代が固定されているのですからたまったものではありません。就活や転職を考えている人は残業代の支給制度についてきちんと把握しておくことは大切です。
 報道によりますと、電通には「鬼十則」と呼ばれる行動規範があるそうです。仕事に臨む姿勢について綴られたものですが、社員手帳の中にも書かれているそうです。まさしく自己啓発にふさわしい内容ですが、今回の女子社員自殺報道が過熱する中で「鬼十則」が手帳からなくなるそうです。
 週刊誌などでは電通の労働状況が報じられています。電通ビルの電気が点いている時間を報じたりもしています。労働監督署が調査に入っているようですが、僕は電通よりも電通の下請け企業のほうに注意を払うべきだと思っています。
 電通が夜遅くまで働いているということは、常識的に考えて下請け企業も同じように働いているはずです。正確にいうなら「働かされている」でしょうか。下請けですから、元受け企業に言われるがままに業務を遂行する必要に迫られあて当然です。
 僕が想像するには、電通は下請け企業にかなり無理難題を押し付けているはずです。基本的に電通に限らず大企業は下請け企業に厳しく接するのが常です。あのトヨタでさえ乾いた雑巾を絞るほどの要請を下請け企業に課しています。下請け企業の大変さは想像するにがたくありません。
 放送業界も電通とは無縁ではありませんが、その放送業界もテレビ局が下請け企業である制作会社に無理難題を押し付けています。ある意味、放送業界は制作会社にしわ寄せを押し付けることで成り立っているところがあります。テレビ業界はたびたび「やらせ問題」が起きますが、その根本的な原因はテレビ局が制作会社にしわ寄せを押し付けていることにあるように思います。
 電通やテレビ局は下請けに仕事を発注する側です。常に発注する側にいるのはいわゆる大企業といわれる企業です。ですから、大企業に勤めていますと発想が傲慢で不遜になりやすい状況になります。下請けに発注するのが基本的な立場になるからです。
 これは以前書いたことがありますが、僕はラーメン店時代に妻が自動車事故に遭ったことがあります。そのときに相手方の損害保険会社の事故担当者は大手メーカーを定年退職した人でした。
 このときの事故はひとつ間違えたなら死亡していたかもしれないほどの大けがだったので長期入院を強いられることになりました。このような状況ではラーメン店の営業にも支障をきたします。なにしろ妻は重要な働き手だったのですから。
 そんな状況のときに相手側の自動車保険会社の事故担当者が送ってきた手紙には「お店が倒産しても当方は責任を負いません」という文面が書いてありました。これだけでも怒り心頭の心持でしたが、お店にやってきた担当者はなんとポケットに手を突っ込んでやってきたのでした。まだ仕事のイロハを知らない若いビジネスマンではありません。歴とした60歳くらいのスーツをピシッと着こなした男性でした。
 僕は基本的に大企業に勤めている人があまり好きではありません。理由は、選択される側ではなく選択する側にいることが多いからです。人間は偉い立場にいる時間が長くなるとどうしても傲慢になってしまいます。
 定年退職したビジネスマンが第二の職場になかなか適応できないことが多いのは「偉い立場にいる感覚」が抜けきれないからです。企業においては定年を迎えるまでの少なくとも十年間はその職場ではベテランという立場になります。ベテランという立場はいろいろなことを知っていて偉い立場でいられることです。その立場がなくなってしまうのですからプライドが傷つけられることになります。プライドとは偉い立場にいるときの感覚です。
 どんなに仕事が好きな人でも企業内で現役でいられるわけではありません。下の世代からどんどん人が上がってくるからです。そんなときにいつまでも先輩面をして職場にいては迷惑になるばかりです。
 ある年齢に達したならあとから続く人に道を譲ることは大切です。これは企業内に留まらず、社会においても同様です。若い人には年配者を敬う気持ちを持ってほしいですが、同時に年配者もつまらないプライドを捨てて接する気持ちが大切です。これから高齢社会の本番を迎えますが、若い人と年配者の両方が相手を思いやる気持ちががなけれれば社会は崩壊してしまいます。
 そうは言っても、、年金の支給時期がどんどん後ろ倒しになりそうだし、しかも支給額も少なくなる法律が成立したし、60才を過ぎたおじさんがそんな世の中を生きていくのは大変です。…僕のことです。若い皆さん、どうかご理解を…。

 じゃ、また。

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posted by satoaki at 20:16 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

<まとめサイトと木鐸>

 プロ野球の球団の親会社にもなっており東証一部上場企業でもありIT企業としても有名なDeNAが謝罪会見を開きました。理由はDeNAが展開している「まとめサイト」である「WELQ」に不適切な記事がたくさん掲載されていたからです。ご存知の方も多いでしょうが、「まとめサイト」は「キュレーションサイト」ともいい、ネットに溢れている情報を「読みやすい」ように「わかりやすい」ように「まとめたサイト」のことです。
 DeNAの「まとめサイト」はいくつもありますが、問題になったきっかけは「WELQ」というサイトのようです。理由はこのサイトが健康に関するサイトだったからです。健康に関する記事ですのでまかり間違えますと命に関わることもありえます。ですから、大きな問題になりました。利用者が間違った情報を信用して実行してしまってはそれこそ命を落とすことにもなりかねません。
 僕の記憶では問題が報じられた当初、朝日新聞社会面に「WELQに医師の監修が入る」というような小さな見出しが載ったように思います。このときは大した記事ではないと思い、詳しく内容までは読みませんでしたが、それから数日後謝罪会見が開かれたのでした。
 結局、DeNAは展開している「まとめサイト」すべてを非公開にしましたが、こうした動きはサイバーエージェントやYafooなどほかの「まとめサイト」にも広がりました。つまり、ほぼすべての「まとめサイト」に問題があったことになります。
 実は僕もLineの「まとめサイト」であるNAVARに投稿していますが、NAVERに関しては全体的に信頼性が高いように感じています。もちろん僕の記事は信頼性に重きをおいていますので検索結果を重視するような記事の書き方はしていません。ですから、悲しいことにページビューも微々たるものです。
 NAVERに投稿する人は収入を得ることを目的にしている人です。もちろん僕もそのひとりですが、それなりの収入を得るのは簡単ではありません。なにしろ数十万とも数百万ともいわれる記事の中から自分の記事までたどり着いてもらわなくてはいけないのですから至難の業です。ですから、コンビニなどで働くのと同じくらいの収入を得ることはできないのが実状です。
 僕はNAVERを始めた当初、自分の記事が「閲覧されることがない」ことも想定内としていました。先ほども書きましたが、少なくとも数十万の記事があるのですから同じ内容の記事がほかにもたくさんあって当然です。ですから「閲覧されない」こともあり得ると思っていました。しかし、不思議なことに毎日誰かしらが僕が投稿したなにかしらの記事を見てくれています。
 最近1ケ月の平均を紹介しますと、毎日400ページビューくらいです。実は最近1ケ月は新しい記事は投稿していないのですが、毎日のページビュー数に変化はありませんでした。なぜ最近1ケ月新しい投稿をしなかったかといいますと、先週書きましたが動画作成に時間を取られていたからです。
 僕の動画はSMAPの解散に関する動画ですのでなんとしても11月中に投稿する必要がありました。今年いっぱいで解散する予定ですので11月中の完成を目指していたわけです。解散したあとの投稿では作った意味がなくなってしまいます。
 またまたついでですが、動画の閲覧についてご報告したいと思います。
 動画もNAVER同様、投稿されている数は膨大です。その中で僕の動画を見てもらうのはNAVER同様至難の業です。投稿してから5日が過ぎましたが、閲覧数は5回です。そしてこの5回は僕が見た5回です。やはり、膨大な数の投稿がある中で僕の動画の存在を知ってもらうのは不可能とさえ思えてしまいます。実際、そのような結果になっているのですが、この状況が普通の人にとっては本当のところではないでしょうか。
 それに比べNAVERは毎日400人くらいの人が見てくれています。実は、僕自身もそれが不思議でなりません。僕の投稿した記事数は60個ですが、その中でまったく閲覧されない記事もあります。日によって違いますが半分くらいがその状態です。現状で報告しますと、最もコンスタントに閲覧数を得ているのは「オリンピック・負けたあなたも美しい」です。それ以外では「コンスタント」にあてはまるものはありません。そのときどきのニュースに関連して閲覧されています。
 僕の記事の閲覧者は毎日400人、月に換算しますと約12000人ですが、投稿記事数60個の割には決して多いほうではありません。勉強のためにほかの人の「まとめサイト」を見ますと、僕とほぼ同時期に開始して記事数は50個くらいにも関わらず僕の10倍にあたる10万人を超える閲覧数の投稿者もいます。中には記事数が10個にも満たないのに30万ページビューを超えている投稿者もいます。
 このような「まとめ記事」を見てしまいますと、やはりその理由を調べたくなります。いったい自分との違いはなんなのだろう…。
 結論を言いますと、多数のページビューを獲得している人たちは、「まとめ記事」を投稿する以前にブログやツイッター、フェイスブックなどでコアなファンを持っている人たちでした。つまりコアなファンが「まとめ記事」を見に来ているのでした。
 youtubeの動画もそうですが、「まとめ記事」も広告がクリックされなくとも報酬が発生するのがアフィリエイトと違う点です。閲覧数によって報酬が決まりますのでとにかく動画や記事を見る人を増やすことが重要で、多ければそれが即収入になります。ですから、コアなファンを持っている人ほど有利なシステムになっています。
 僕の場合は、それが最も苦手です。ツイッターもアカウントは開いていますが休眠状態ですし、facebookなどは論外です。今はやりのインスタグラムなどはもってのほかです。僕からしますと、これらのSNSはマーケッティングの手段にしか思えません。つまり、商売っ気が強すぎるように感じてしまうのです。
 商売は大事です。大げさにいうなら商売は人間を成長させてくれます。だからこそ、商売に損得計算がありすぎることに抵抗感が生じてしまうのです。これが僕の困った点なのですが、生まれつきの性格ですから仕方ありません。
 今回の騒動のきっかけは健康に関する情報の真偽がおろそかになったことですが、それと同時に著作権違反も大きな問題です。人の著作権をないがしろにすることは人のものを盗むことと同じです。情報を発信する人はそのことに十分に留意する必要があります。
 その意味で言いますと、「まとめ記事」を掲載するプラットフォームを提供することを業務にする人たちは情報について責任を負う義務があります。これまでのスタンスは「内容については、記事作成者の責任」でしたが、そうした考えはこれからは通用しないことを肝に銘じていく必要があります。
 このような問題が起きるのは「インターネットが新しいメディアであること」が原因のように思われますが、実は既存のメディアでも、しかも大手新聞社でも起きています。
 先週、朝日新聞の朝刊真ん中あたりのページに大きく一面を使って広告を出していたのは「金運が上がるブレスレッド」の広告でした。このような記事は僕が「まとめサイト」で「信用できない広告」の例として紹介したものと同レベルの広告です。天下の朝日新聞でさえこのような状態なのは真に由々しき問題です。
 今、新聞社は広告が取れず苦労していますが、だからといって収入になれば広告がどんな内容であろうとも掲載するというのではジャーナリズムの旗が色あせるというものです。

 かつて「新聞は社会の木鐸たれ」と言われていましたが、問題のある広告を載せるのは正反対の行動です。新聞も民間企業ですから利益に対して敏感であるのはわかりますが、木鐸の面も失わないでほしいと思います。また、今後は新聞にとって代わるであろうネットメディアも木鐸を目指す気持ちを持ってほしいものです。

 じゃ、また。


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posted by satoaki at 20:37 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月04日

<動画>

 毎年書いていることではありますが、1年は「あっという間」に過ぎてしまいます。今年は1月に世間をあっと驚かせることがありました。SMAPの解散騒動です。この騒動は一度は収まりかかりましたが、夏場に再燃し結局解散に至ってしまいました。やはり一度生まれた溝は簡単には埋まらないのが人間の性というものです。
 そんなSMAPの様があまりに悲しく元の仲の良い5人に戻ってほしい思いから、僕が動画を作ることを決意したのが9月の終わりです。しかし、そこには問題がありました。それは僕には動画を作る知識もスキルも全くないことでした。それでもあきらめないのが僕の性分です。毎日少しずつ勉強しながら日々努力を重ね本日なんとか形にすることができました。題名は「SMAPの涙」、7分半の大作(?)です。僕のSMAP愛が込められています。

 妻が毎週「SMAP×SMAP」を見ていますので僕も「チラ見」しているのですが、最近の放送では巷間いわれているような「仲たがい」は解消しているに見えます。確かに、一時期は「仲たがい」をしている雰囲気が見ている側にも伝わってきていました。しかし、現在は幾らか修復しているのではないでしょうか。逆に言えば、一時期の険悪な関係が決して嘘偽りではなかったことの証明ともなります。
 思い起こせば、5人の関係がおかしくなっていたことを最初に感じたのはちょうど去年の12月です。SMAPは数年前から日本テレビで明石家さんまさんとクリスマス特番をやるようになっていました。一昨年までの内容はとても面白くフジテレビとは違ったSMAPを見ることができました。しかし、昨年の特番はとても残念な出来栄えでした。なにしろさんまさんがどんなに盛り上げようと頑張っても5人の気持ちが乗っていないのがわかるのです。
 僕が「あれ!?」と思ったのは番組の中でキムタクさんが冗談ともつかない表情で「来年やってるかどうかわかんないよ」と口走ったときでした。さんまさんが解散が公になったあとに話していましたが、この番組を作っているときはすでに「仲たがい」の状態だったそうです。テレビというのは人間の内面を映し出すところがありますので番組が作られている雰囲気が如実に表れます。

 ここまで来てしまいますと、さすがに解散をやめることはありえないでしょう。そうではあるならばせめて5人が仲良く笑顔で解散することを願っています。そういう願いを込めて動画を作りました。それでは、なんの知識もスキルもない僕が動画を作った顛末を綴りたいと思います。
 まず動画というものについて調べる必要がありました。そして、一口に動画と言いましてもいろいろと種類があることを知りました。皆さんも一度は耳にしたことがあると思いますが、「パラパラ漫画」です。ノートの端をパラパラと動かして絵が動いているように見せる方法です。詳しくは調べませんでしたが、さらにそれにも2つの種類があるようでした。ソフト名で言いますと、「susuka」と「ParaFla」というものです。この2つは同じ「パラパラ漫画」でも種類が違うそうです。ですが、結局僕はこのどちらも選択せず3Dソフトというものに挑戦することにしました
 これは僕の信条なのですが、科学といいますか技術といいますか、つまりなんといいますか、そういうものの発達や発展は「昔ならできなかったことができるようになること」でとてもよいことだと思っています。一昔前なら素人が動画を作ることなど絶対に無理でした。しかし、技術の進歩はそれを可能にします。
 少し話は逸れますが、たまに「あまりに科学が発展しすぎると、人間を不幸にする」というような意見を見かけることがあります。例えば、スローライフという言葉がありますが、「もっとゆっくり生きればいい」という主張でその延長線上に科学の発展や技術の発展の弊害を指摘しています。具体的には「輸送技術の発展で東京から大阪へ移動する時間が短くなって何の意味があるのか」などといいます。しかし、僕はこの意見に反対です。
 科学や技術の進歩や発展は決して人間を不幸にしません。反対に人間を幸せにするために科学や技術は進歩し発展する必要があると思っています。科学や技術が進歩し発展することは弱者を助けることになります。ITの進歩は身体に不自由がある人の手助けになります。東京大阪間が短時間で移動できることは自由になる時間が増えることです。その自由になった時間を趣味に生かすことも有意義ですし、ボランティアに使うこともできます。それが可能になるのは科学や技術が進歩・発展するからです。
 このように技術が発展することは人間のできる範囲を広げることにつながります。つまり、僕のような還暦のおじさんでも動画が作れるというわけです。10年前では考えられないことでした。動画を作るのは専門の知識を持った人にしかできないことでした。
 話は戻りますが、このような考えの僕ですので素人でも可能な動画作成の方法として動画ソフトを使うことに決めました。それから、これも僕の信条なのですが、あることに挑戦するときはできるだけコストをかけないことが重要です。簡単に言ってしまいますと、動画ソフトはフリーか低価格のものを使うことにしました。
 そのためには情報を収集する能力はとても大切です。今回、僕が動画を作成するに当たって利用したソフトを順に紹介しますと、「六角大王」「さし絵スタジオ」「ペイント」「ムービーメーカー」です。この中で動画に関心のある人しか知らないのは前者の2つです。
 僕はいくつかソースネクストでソフトを購入したことがありますので定期的に広告が送信されてきます。その中に2つのソフトが格安で販売されていたのでした。実は、僕の判断が正しかったのかどうかは今でもわからないのですが、動画ソフトは本来は最低でも1万円ほどする高価なものです。それがキャンペーンとして千円台で販売されていました。実は、まだ広告がきた段階では動画を作ることを決めていませんでしたが、「いつかのために」という気持ちで購入していたのでした。
 しかし、実はこの2つを購入したことを後悔したのでした。理由は、解説書が充実していないからです。先ほどから僕の信条を紹介していますが、あとひとつ信条を紹介させてもらいますと、僕はどんなソフトも「マニュアルさえあれば使うことができる」と考えています。
 ところが僕が購入した2つのソフトはそのマニュアルが充実していなかったのです。いろいろ調べていきますと、使いこなせずに挫折する人が多いようでした。身の回りにある電化製品などもそうですが、使い方が複雑なものはどんなに便利でも意味がありません。使い方がわかりやすくないのはそもそも「便利」とはいえません。これはソフトにも当てはまります。
 実は、動画を作る際に一番時間を費やしたのは作業よりも使い方を勉強することでした。これは4つのソフトすべてに当てはまります。今回いろいろなソフトを使ってみて心底感じたのはマニュアルの充実さを事前に調査することの重要性でした。
 最後に、あとひとつ後悔していることをあげるとするなら、購入したソフトに劣らないくらいの機能のあるフリーの動画作成ソフトがあることをつい最近知ったことです。しかも、わかりやすい解説書まで本屋さんで販売されていました。
 本当に「情報を知らない」ということは損につながります。しかし、最初に調べたときはいくら検索をしてもそのソフトの存在に突き当らなかったのです。検索の方法をもっと勉強する必要がある、と反省した次第です。

 じゃまた。


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posted by satoaki at 21:48 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月27日

<火災保険とリフォーム工事>

 先日、平日の昼間に在宅していますと、インタフォンがなりました。宅配便かと思い大きな返事をしながら扉を開けますと、30才過ぎの若い作業服姿の男性が立っていました。後ろに目をやりますと、少し離れたところに似たような年恰好の男性が笑顔を向けていました。
 扉の前にいた男性は、僕の顔を見ますと作り笑顔で話しかけてきました。胸元には首から下げた身分証明書のようなものがぶら下がっていました。

「この近所でリフォーム工事を行いますので、ご迷惑になることもあるかと思い、ご挨拶に伺いました」

 僕が「あ、はい、わかりました」と答えますと、男性はさらに続けました。

「お父さん、ちょっとたまたまお宅の雨どいを見ましたところ、かなり古くなっていますので無料で点検しますよ。雨どいが詰まると大変ですから点検だけでもしましょうか?」

 僕は突然のことでしたので答えあぐねていますと、男性はさらにさらに続けました。

「こういった工事って、火災保険でリフォームできるんですけどご存知ですか? 火災保険を使いますと無料で工事ができるんですけど…」

 この段階で僕はようやっと「近所の工事についての挨拶」が嘘であることがわかりました。僕はふたりの男性の顔を交互に見ながら「どちらのお宅の工事ですか?」と尋ねました。すると、指している場所が具体的にはわからないような方向をに指先を向けて(架空と思える)名前を告げました。この曖昧な振る舞いを見て、僕は嘘を確信しました。
 男性はこのあともいろいろとセールストークを展開してきそうでしたので、僕は「いえ、結構です」と打ち切りました。男性たちはバツの悪そうな表情で立ち去りました。
 そういえば、ネットでも似たような内容の広告を見たことがあります。それを思い出し試しに検索してみますと、やはりトラブルがあるようです。新手の詐欺商法のひとつでもあるようで、消費者センターでは注意を喚起する文章が記載されていました。

 しかし、ネット検索をしていて少し気になることもありました。それは損害保険会社の各社のHPではトラブルに注意を促す告知がなかったことです。HPを丁寧に隈なく確認したわけではありませんので、もしかしたらどこかには告知されていたのかもしれませんが、一般の人に目立つように掲載していないのであれば「告知されていない」のと同じです。火災保険に関係する重大な問題ですので目立つように掲載しなければ意味がありません。
 保険会社各社のHPでは注意を喚起する告知を見かけませんでしたが、損保保険協会のHPにはすぐにわかるように掲載されていました。この違いは偶然ではないように思います。
 僕の受けた印象では、各保険会社は意図的に「火災保険によるリフォーム工事」に関するトラブルの紹介を避けているように感じました。もしかするとこうした事例を紹介することは、営業的にマイナスの影響があると判断しているのかもしれません。

「なぁ〜んだ。なんだかんだ言って保険って使えないじゃん」

というイメージが広まっては保険会社にとってはマイナスです。
 しかし、保険会社にとって不利な情報であっても一般の人に有意義であるなら保険会社は世の中に呼びかける義務があります。実際には保険金が支払われない事例にも関わらず、あたかも支払われるかのように説明され、業者と契約を結んでしまっては消費者が大きな損失を被ることになります。
 消費者生活センターのサイトには、業者に説明されるままに工事契約を結び、「結局、保険が下りず」高額な出費が発生したり、途中で解約を申し出ても違約金などを請求された事例が紹介されていました。こうした被害に遭わないように、保険会社は契約者の立場に立って適切な告知をする義務があります。
 このようなトラブルが発生する根本には火災保険が火災以外の原因でも保険金が支払われることがあります。ですから、リフォーム会社の説明もあながちすべてが詐欺だと決めつけることもできません。保険会社がこうしたトラブルを積極的に紹介できない理由もそこにありそうです。
 実際に火災保険のパンフレットには、火災以外の原因でも保険金が支払わるとしっかりと書いてあります。例えば、ほとんどの保険会社で「台風」「突風」「竜巻」「落雷」「水害」などが原因で損害が発生したときでも補償される説明がなされています。
 しかし、だからと言って保険金は無節操に支払われるわけではありません。常識のある人ならすぐに理解できると思いますが、なんでもかんでも保険金を支払っていては保険という制度が成り立たなくなってしまいます。
 保険金が支払われない例として最も有名なのは「経年劣化」です。これは当然です。どんな建物でも時が経てば古くなります。そうしたことにまで保険で賄われるはずがありません。そして次に大切なことは「補償されるのは実際の価値」が基準ということです。これは「経年劣化」とつながっていますが、「新築」と「30年築」の物件では、同じ「雨どい」でも価値が違って当然です。
 もう少し具体的に説明します。仮に「雨どい」が新築の段階で10万円の価値だったとすると、「30年築」の建物の「雨どい」は2万円になっているとします。このときに台風の被害で「雨どい」を交換することになったときは10万円を補償するのではなく、被害を受けたときの状態である2万円の補償しかしません。つまり、保険だけでは交換する費用をすべては賄いきれないことを意味します。
 因みに、中古の建物でも新築の価値として保険を契約することもオプションをつけることで可能です。
 ネットで検索をしますと、火災保険を利用して「0円でリフォーム」ができるような表現をしているサイトもありますし、それを逆手にとって「悪徳業者に注意をしましょう」というさらに手の込んだ悪質なサイトもありました。
 僕が先に説明したことも「昔取った杵柄」の知識ですので、今でも通用するかは定かではありません。火災保険でリフォームを考えている人は工事契約をする前に保険会社に確認することが大切です。

 ところで…。
 東京オリンピックのボート会場が侃々諤々の議論の末、元の鞘に納まりそうです。このことに対して小池知事を非難するかのような記事がありますが、この批判は当てはまらないように思います。
 理由は、単に元の鞘に収まるのではなく費用がかなり抑えられたからです。そもそも論になりますが、小池氏が知事にならなければ、無駄な経費になんの疑問を持つこともなく都民の税金をつぎ込むはめになっていたはずです。
 豊洲市場問題にしましても同様です。もし小池知事でなかったなら環境的にも費用的にも大きな問題を抱えながら豊洲に移転していたことになります。そこで働く人たちにも健康被害が生じていたかもしれません。もちろんそこで売られる食品を食べる都民の健康被害も同様です。
 それを思うとき、小池氏の前の知事や都職員の行ってきたことはリフォーム詐欺より重い罪があります。小池氏の政治手腕はもっと認められて然るべきです。

 じゃ、また。

 

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posted by satoaki at 16:39 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月20日

<えばりたがる人々>

 トランプ氏が大統領に決まってから1週間以上が過ぎましたが、世界各地からいろいろな反応が起きています。先週も書きましたが、世界各国で排他主義や人種差別を唱える政党が躍進しています。本当に世の中は破滅の方向に行ってしまうのでしょうか…。
 排他主義が受け入れられるのはよそ者を受け入れる余裕がなくなってきたからです。やはり誰でもそうですが、一番かわいいのは自分です。その次に妻そして子供といった家族です。そこから先は人により考え方がいろいろです。
 今では中堅俳優として活躍している宇梶 剛士 さんという方がいますが、この方は芸能界に入る前は暴走族のリーダーでした。そしてグレた原因はお母さまが家族よりも社会運動に没頭したからです。宇梶さんの自伝を読んで驚いたのですが、その後NHKの番組でもインタビューに答えていました。家族にとっては災難ですが、家族よりもほかのことに夢中になる人がいるのも事実です。しかも、「ほかのこと」というのが社会運動というのはその是非について考えさせる問題ではあります。
 このように家族が普通の家庭とは異なっていますと、それが不良になる原因になることは多いものです。もしかすると「すべて」と言ってもいいかもしれません。それほど家族という集団は子供に与える影響が大きいものがあります。因みに、宇梶さんのお母様が没頭した運動はアイヌ民族の生活を向上させることでした。
 宇梶さんのお顔を見ればわかりますが、彫りが深く目鼻立ちがはっきりしたかなりのイケメンです。今は中年ですのでイケメンぶりも衰えていますが、20才前後の写真を見ますと、驚くほどイケメンです。身長も190センチ近くあり足も長いので芸能人にぴったりの容貌ということになります。
 そんな宇梶さんですが、若い頃は注目されたことはありませんでした。宇梶さんが注目されるようになったきっかけは渡辺えり子さんという女優のおかげだそうです。これはなにかの番組で宇梶さん自身がお話していましたが、渡辺さんはコミカルな演技や天然キャラが魅力ですが、実は劇団を主宰している実力派です。
 宇梶さんに限ったことではありませんが、芸能界というところはイケメンだけでは成功することができません。モデル出身の阿部寛さんの自伝によりますと、モデルの人は30才を境に方向転換を余儀なくされるそうですが、芸能界にはイケメンは腐るほどいますのでイケメンが「ウリ」になることはないそうです。それ以外の魅力を磨かないと芸能界で生き残っていくことは難しいようです。
 しかし、「若さ」というのは人を勘違いさせるものです。相方が芥川賞を受賞した漫才コンビの片方の人が米国に進出するそうです。この方の場合は最初から売れないことを覚悟して米国に渡るわけですが、そうでない人もいます。日本である程度成功し、その勢いで米国進出を考える人もいます。特に日本で若くして成功した人が米国に挑戦するケースが多いのですが、現在まで成功した人はいません。
 日本人が米国で成功しない理由のひとつに「英語の発音が正しくない」と言われています。XJAPANのYOSHIKIさんは今でも世界的な演奏活動を精力的に行っていますが、デビューしたときからボーカルのTOSHIさんに口うるさく英語の発音についてしつこいくらいに注文をつけていたそうです。
 そういえば、ロックの大御所・矢沢栄吉さんの著書にも同じようなことが書かれていました。矢沢さんのすごいところは「発音が正確でないと通用しない」という思いから、米国に住む決断をしたことです。こういうところが矢沢さんの矢沢さんたる所以です。
 米国進出に関連してあとひとり思い出すのは俳優の加藤雅也さんです。加藤さんもモデル出身だそうですが、勿論ハイレベルなイケメンに加え身長もスタイルも抜群でした。しかし、それでも日本に戻って来ています。同じような足跡の人に吉田栄作さんもいました。
 皆さん、「成功した」とは言い切れない部分がありますが、挑戦する姿には素晴らしいものがあります。日本での成功に安住せず、さらに高みを目指す心意気は見ていて感動を受けます。
 プロ野球界でも似たような経歴の人が多くいますが、成功とはいかなくても挑戦する姿勢は褒められるべきです。メジャーでレギュラーに定着できずそれでもかれこれ5年も米国に挑戦し続けた元ソフトバンクの川崎宗則選手が来年は日本に戻ってくるような報道がありました。メジャー挑戦の経験は決して無駄ではなかったことを見せてほしいものです。
 新しいことに挑戦する人が多くの人から評価・支持されるのはその姿勢が多くの人に感動を与えるからです。しかし、リスクがあるのも事実です。多くの人が評価するのはそこにリスクを恐れない勇気を見るからです。誰でも新天地では新人となります。新人とはそれまで「偉そうにふるまっていた」ことができなくなることを意味します。
 排他主義とはまさに「自分たちが偉そうに振舞えなくなること」を避けることが目的です。今回の米選挙では白人の労働者がトランプ氏を支持したという分析がなされていますが、いつの間にか白人の人種比率が50%を割りこんだ現実が危機感を持たせたのではないでしょうか。大手新聞などマスコミが選挙結果を見誤りましたので安易に断じるのは危険ですが、白人が少しずつ減ってきている状況が不安感を高めさせたのは間違いありません。
 それまで「白人として偉そうに振舞っていた」人たちが少しずつ新人の立場に追いやられそうなのです。誰しも不安になるのは仕方ないかもしれません。白人が主流を占めていたときは寛容に対処できたことが今の状況ではできなくなっているのです。つまり心の余裕がなくなったのです。
 「感情労働」という言葉があるそうです。ウィキペディアから引用しますと「肉体や頭脳だけでなく『感情の抑制や鈍麻、緊張、忍耐などが絶対的に必要』である労働を意味する。一番わかりやすく言いますと、接客業です。日本では「お客様は神様」という発想が根付いていますので理不尽な要請をされることが少なくありません。
 先日も車掌さんが乗客のあまりのクレームに制服をホームに叩きつけて業務放棄をした報道がありました。この車掌さんには擁護するツイッターがたくさんきたそうですが、接客業は典型的な感情労働です。
 近年のお客様には「なにを言っても、おこなっても許される」という発想が染みついている人がたまにいます。これなどは「偉そうに振舞いたい」欲望の最たる例です。例えば、あなたの職場にも「仕切りたがり病」の人がいるのではないでしょうか。上司部下の関係であるなら上司が仕切るのは当然ですが、同じ職位でありながら上から目線で話したがる人がいます。このような人はつまるところ「偉そうに振舞いたい」人です。
 少し古い例になりますが、NTTドコモがi-modeを出したときの顛末を描いた「松永 真理のiモード事件」という本があります。この本はドコモ生え抜きの社員と途中入社の社員、そして経営コンサルタントの三者の軋轢が事細かにつづられています。まさにこの三者で難しいのは実質的には三者が同じ職位だったことです。誰が主導権を握るかがそのあとの展開に大きく影響しますので三者とも主導権を取るのに必死でした。つまり「偉そうに振舞いたい」人の集まりということになります。そのような状況の中でiモード成功させたのですから松永氏の仕事スキルが際立つことになりました。松永氏は全員が納得できるようなやり方を貫き通したのでした。因みに、松永氏はそれまでリクルートで「とらばーゆ」の編集長を務めていた方です。
 「偉そうに振舞いたい人」が主導権を握ってもそのような社会や組織は必ずあとで破たんします。結局は公平で平等な社会なり組織が生き残るのです。ここで僕の結論。
 だーかーらぁ、排他主義とか人種差別が蔓延るような世の中にしてはいけないのです。

 じゃ、また。

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2016年11月13日

<TPPとPPAP>

 世界中が驚いたドナルド・トランプ氏の勝利でした。それまでの世論調査では僅差ながら「ヒラリー・クリントン氏の勝利が間違いない」ようにメディアから報じられていたからです。このことはマスコミの情報の正確さについても考えさせられることでした。つまり、あたかも世の中の動向について知り尽くしているかのように振舞っているマスコミが実際は市井で暮らしている国民の本当の気持ちをとらえ切れていなかったことを示しています。
 マスコミでは「隠れトランプ」という表現を使っていますが、「隠れトランプ」とは「あまりに過激な言葉づかいをするトランプ氏を表立っては支持を表明できない人」のことです。「隠れトランプ」がたくさんいたことになります。
 「隠れトランプ」の存在は裏を返せば、トランプ氏の主張が「常識を逸脱していること」を認めていることの証でもあります。つまり、常識という感覚はトランプ氏に投票した人たちも共有していることになります。
 しかしそれでも米国民はトランプ氏を大統領に選出しました。選挙結果の分析をいろいろなマスコミが報じていますが、興味深いのはあれだけ女性蔑視の発言がマスコミで報じられていたにも関わらず女性の半分以上がトランプ氏に投票していたことです。つまり、米国の女性たちは「女性蔑視をするような人」であってもクリントン氏よりは「まし」だと思ったことになります。しかも、クリントン氏は女性でした。
 選挙結果を分析するときに出てくるのが「エスタブリッシュメント」という言葉です。辞書には「社会的に確立した制度や体制。または、それを代表する支配階級・組織。既成勢力」と説明されています。僕のイメージではエリートのような感覚です。
 トランプ氏に投票した人たちはこの「エスタブリッシュメント」に対して反感する気持ちを持っている人が多いそうです。ヒラリー・クリントン氏は「エスタブリッシュメント」を象徴する人のように言われていました。そのクリントン氏の対照的な人物を演ずる意味合いで、選挙活動中のトランプ氏は野球帽をかぶって登場したりなど庶民的な雰囲気を強調していました。
 トランプ氏の「TPP反対」や「関税を引き上げる」または「移民排斥」といった主張は社会の末端で働いている人々を喜ばせる主張です。米国民の労働者を守ることにつながるからです。これらの主張を聞いていて思い出したのが英国のEU離脱でした。EU離脱を支持した人たちも根底にあるのは人やモノの自由化によって自分たちの職場という既得権が奪われる危惧感でした。トランプ氏の主張と通じるものがあります。
 しかし、僕が不思議に思うのはトランプ氏は決して末端で働いている庶民を代表する立場の人ではないことです。なぜならトランプ氏は億万長者です。市井で必死にコツコツ働いている庶民から利益を搾取する立場にいる人です。トランプ氏の経歴を振り返りますと容易にわかります。
 僕がトランプ氏が大統領に立候補したことを知って真っ先に思ったのは「まだ第一線にいたんだ」というものでした。1980年代に不動産王として成功したのちに90年代には苦境に陥り、その後も復活と転落を繰り返している印象があったからです。ですから、今回の立候補までトランプ氏の名前など忘れていました。
 当初トランプ氏は泡沫候補と目されていました。おそらく大方の人が「すぐに消える」と思っていたのではないでしょうか。誰もが共和党の指名候補になることさえ想像していなかったはずです。さらに選挙戦終盤では共和党の主流派や大手新聞などマスコミまでもがトランプ氏を支持しないと表明していました。しかし、あれよあれよという間に大統領にまで上りつめてしまいました。
 日本では一時期選挙などの際にマスコミで「民度」という言葉が使われていました。ウィキペディアには「特定の地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指すとされる[誰によって?]。明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。テレビ番組の内容が時代、地域の民度と連動しているとの考えも存在する」と書かれています。
 選挙のときに使われるときの民度とは「社会のためになる判断ができる知的水準」という意味合いが強かったように思います。その意味で言いますと、トランプ氏が大統領に上りつめたということは米国民は民度が低いことを示しているのかもしれません。なにしろ人種差別発言や外交知識の欠如が大統領どころか政治家としてふさわしくないことが明白だったからです。そうした人物を選ぶ国民が民度が高いとは思えません。
 しかし、トランプ氏を支持する人のインタビューを聞いていますと、これまでの政治とは違うやり方を期待しているようで一概に民度が低いとも思えませんでした。米国民の民度が低いのかどうかは今後のトランプ氏の大統領としての手腕にかかっています。
 トランプ氏の勝利が確定してから米国では各地で反対デモが起きているそうです。この動きが今後どのように展開するのかはわかりませんが、米国の分断がさらに大きく表面化するのは避けられないように思います。
 「それにしても」と僕は思います。もし民主党の指名候補がクリントン氏でなかったなら選挙動向は違った展開になったはずです。僕はトランプ氏が大統領になれたのは民主党の候補がクリントン氏だったからだと思っています。クリントン氏の敗戦の弁を新聞で読みましたが、潔さと政治に対する真摯な思いが伝わってきました。それだけにクリントン氏は立候補すべきではありませんでした。
 民主党が2期連続で勝利していたこともトランプ氏を勝利に導いた要因のように思いますし、クリントン氏が政権に関与している期間が長すぎることもそうです。もしサンダース氏が民主党の候補だったなら変化を求めている人を引き入れたように想像します。クリントン氏よりは「まし」と思った人がトランプ氏に投票したのですからそうした人がトランプ氏に票をいれなかった可能性があります。しかし、歴史に「もし」は禁句です。
 世界を見渡しますと、EUにおいても極右と言われる政党が各国で伸長しています。これは世界的に経済の面だけではない保護主義が台頭していることを表しています。各国が自国のことだけを考えて行動するならそのあとに待っているのは戦争でしかありません。世界は第二次世界大戦の反省としてそれぞれの国が自国の利益だけを考えるのではなく協調することで平和を実現することを目指しました。EUが誕生した根源的な理由にも「経済で密接に結びつくことが平和につながる」という概念があったはずです。しかし、現在の世界は反対の方向に向かっているように映ります。
 確かにトランプ氏の主張するようにアメリカが世界の警察官を続けることは現実的ではなくなっています。マスコミふうな言葉で言うなら「パックス・アメリカーナの終わりの始まり」です。1991年ソ連が崩壊してアメリカ一強時代に入ったと言われ、共産主義に対して資本主義が勝利をしたと言われました。しかし、そのアメリカも数年前から衰退の道を歩んでいます。保護主義の台頭はそのことと無関係ではありません。諸行無常は世の常ですが、これから世界はどこに向かって進んで行くのでしょう。
 このような混沌とした時代に僕たちのような普通の人が心がけておくべきことは自分のことだけを考えるのではなく社会に関心を持ち、他人の境遇にも心配りをすることです。そして、政治に投票という形で参加することです。そのために必要なことは日ごろから世の中について勉強することです。
 例えば、「TPPとPPAPの違い」はわかっていなければいけません。

 じゃ、また。

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posted by satoaki at 20:00 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月06日

<番記者>

 番記者という言葉を僕が初めて聞いたのは竹下さんが首相になったときです。番記者とは特定の政治家につきっきりになる記者ですが、フジテレビの番記者にラグビーで活躍していた上田昭夫さんがなったことがマスコミで注目を集めたからです。
 上田さんは新日鉄釜石の松尾雄治さんと同年代の選手ですが、監督として慶應大学を日本一に導くなど選手としてまた指導者として活躍した人です。因みに、先日亡くなりました神戸製鋼の平尾誠二さんは世代がひとつ後輩になります。
 上田さんで最も印象に残っているのは慶応大学の監督として日本一になったことです。現在は対戦方式が変わりましたが、当時は毎年1月15日に学生日本一と社会人日本一が対戦して日本一を決定する日本選手権がありました。常識的に考えるなら学生と社会人では力の差が歴然と開いているのが普通ですので学生が社会人に勝利することはあり得ません。ところが、上田さんが監督を務めていた1986年は慶応大学がトヨタ自動車を破って日本一になったのです。このときの驚きは今でも覚えています。スポーツ大好き人間の僕としては体力も経験も勝っているはずの社会人が学生に負けるのはあってはならないことです。そうであるだけにとても興奮しました。
 僕は一時期ラグビー界で活躍した人について書かれた本を読み漁ったことがあるのですが、そのときに共通点があることに気が付きました。実は、あまりうれしくない共通点なのですが、早世する方が多いことです。
 先の平尾さんもまだ53才でしたが、上田さんも昨年62才で亡くなっています。またさらに遡るなら早稲田大学で活躍し日本代表監督も務めた宿沢広朗さんがいます。宿沢さんは2006年に55才の若さでお亡くなりになっています。因みに、宿沢さんの早稲田大学を日本一にしています。
 昨年、ラグビー日本代表はワールドカップで南アフリカに勝利し世界の注目を集めました。またそれは監督のエディ・ジョーンズヘッドコーチの指導力が注目されたことでもありました。そのときはエディ監督の指導方法が認められ、外国人監督でなければ日本は成長できないかのような論調までマスコミに出ました。
 しかし、僕的には「日本にだって優れた指導者がたくさんいるにの…」との思いがあり、納得できない気分でもいました。

 話が逸れてしまいました。

 僕はラグビーで有名な上田さんが竹下首相の番記者になったことでその仕事を知ったわけですが、番記者は政治家に限らずスポーツ選手などにもいることも知りました。ウィキペディアから引用しますと「番記者は、基本的に取材対象者の動静を継続的に追い、情報やコメントを引き出したりすることが重要な役割とされている。同じく引用しますと「取材対象者との距離が近くなればなるほど、重要な情報を得ることができ、時にはスクープを得ることもある」存在です。
 しかし、問題点もあり「取材対象者と距離が近くなるため、癒着が生まれることもある」ことです。テレビなどで政治評論家として活躍している人の中には番記者の経験のある人が少なからずいます。現在、日本テレビで権勢を誇っているナベツネさんが中曽根首相の番記者だった話は有名ですし、ほかにもたくさんいます。僕の想像するところでは、記者の中でも番記者はエリートコースのひとつなのかもしれません。
 スポーツ界で僕が最初に番記者を意識したのは元巨人でメジャーでも活躍し、国民栄誉賞ももらっている松井秀喜選手がメジャーに行っているときでした。ある番組が松井さんに密着していたのですが、たまたま松井選手の休日に過ごすようすを撮影していました。
 スポーツ選手といえどもお休みの日はリラックスをしたいものです。しかし、その日松井選手は各社の番記者が集まって行っていた草野球を見に行きました。松井選手くらいになりますと各社が番記者を張りつけます。ですから、人数的にはかなりになります。そうした人たちが集まってお休みの日に草野球をやっていたのでした。
 最初松井選手はグラウンドで戦っているようすを金網越しに見ていたのですが、番記者たちに誘われて試合に参加することになりました。もちろん草野球ですから遊びです。それでも番記者の人たちを喜ばせようとする姿勢に好感しました。そのやりとりを見ていて、松井選手が番記者たちから好かれていることがわかりました。
 因みに、松井選手が打つときは右打席に入っていました。ただの草野球が松井選手が参加するだけで盛り上がるようすが映像から伝わってきました。
 松井さんは選手時代にあまり悪く書かれたことがありません。その理由が草野球に参加している松井選手の姿勢からわかりました。松井選手は取材する側の気持ちも慮って接しているからです。もちろん偉ぶったりわがままな振る舞いなど決してしないのでしょう。松井選手は番記者の人たちから慕われているようでした。松井選手のように選手として大成するのには番記者との接し方や距離感の取り方がとても重要な気がします。
 松井選手に対してあまりうまくつきあっていない印象があるのがイチロー選手です。もう少し古くなりますと野茂英雄さんでしょうか。
 想像でしかありませんが、イチロー選手の独特な孤高を好む雰囲気が番記者たちとの距離を遠ざけているように感じます。イチロー選手の場合はずば抜けた実績が番記者との距離感など吹き飛ばしていますので問題はおきませんが、番記者ともう少し自然に接することができていたなら日本での報道も違ったものになったような気がします。
 結局、スポーツ選手もその動向を伝えるのはマスコミであり記者です。その伝え方ひとつで選手のイメージは全く違ったものになります。ですから、スポーツ選手は番記者との接し方や距離感の取り方はとても重要です。
 有名なスポーツ選手が本を出すときは選手との距離感がとても大きく影響します。スポーツライターはいかにして選手と仲良くなれるかが勝負の分かれ道になります。そうした目でスポーツ関連の本を眺めますと一味違った見方ができます。
 そのような観点で今最も注目されている野球選手である大谷翔平選手をみますと、とても上手に番記者と付き合っているように見えます。大谷選手は実力はさることながら頭もとてもいい人ですので番記者との接し方をすでに身に着けているようです。あの若さでそのような感性を獲得していることが165キロよりも僕は驚かされます。
 記者からしてみますと、「なんとかして大谷選手の心の中に入ろう」と虎視眈々と機会をうかがっているはずです。大谷選手には、そんな大人の深謀遠慮に惑わされることなく野球人生を歩んでほしいと思います。

 じゃ、また。

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posted by satoaki at 20:24 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月30日

<日ハムが優勝を決めた広島球場のファン>

 日本シリーズは日本ハムの勝利で決着しました。しかし、正直なところ敵地での決定でしたので決まった瞬間は盛り上がりに欠けていたように思います。やはりどんなこともそうですが、あることが盛り上がるにはそのときの周りの状況が大きく影響します。本拠地での決定だったならもっと大きな盛り上がりになったはずです。
 やはり日本一を決めた試合ですので球場全体がフィーバーしているのが理想ですが、めぐり合わせですので仕方ありません。球場が盛り上がらないのは当然ですが、僕は違う意味で広島ファンに対して感銘を受けました。それは、広島ファンがとても礼節をわきまえた対応をしていたからです。本当は悔しくて仕方ないはずですが、それにも関わらず日本ハムの勝利を称える姿勢を見せていました。間違いなく広島が優勝することを願っていたはずで、その広島を撃破した日本ハムに対しては反発の気持ちのほうが強いに違いありません。それでも栗山監督が胴上げされたときには拍手を送っていました。このときほど僕は「日本人に生まれてよかったぁ」と思ったことはありません。
 日本には古来より武士道という精神があります。実のところ正確な意味はわかりませんが、「正々堂々としていて潔い」精神といったイメージでしょうか。広島ファンの姿勢はまさしく武士道に適った対応であり振る舞いでした。悔しい気持ちがあるのにも関わらず相手を罵るのではなく称賛しているのです。これこそスポーツです。スポーツの最も素晴らしいところは最善を尽くした者同士が結果に関係なくお互いを称えあう姿です。
 広島ファンの素晴らしさに感動していましたら、リオデジャネイロ五輪での吉田選手の決勝戦を思い出しました。なにしろ霊長類最強女子である吉田選手が負けたのですから世界の注目を集めました。吉田選手を負かしたのはアメリカ代表のヘレン・マルーリスという選手ですが、彼女は吉田選手に憧れ、目標にしてレスリングを続けてきた選手でした。
 マルーリス選手は吉田選手を研究するために日本で一緒に練習したこともあるそうです。吉田選手を目標にしていたのはもちろんマルーリス選手だけではありません。世界中の女子レスリング選手が目標にしていました。その吉田選手を破ったのですからそのうれしさは想像に難くありません。
 マルーリス選手の戦績を見ますと、これまでに世界選手権やいろいろな世界大会で幾度も吉田選手に跳ね返されています。まさに大きな壁となっていました。その吉田選手に勝つために「人並み以上」という言葉では言い表せないほどの努力をしてきたはずです。ですから、星条旗を掲げ目を真っ赤にしながら笑顔で歩く姿は感動を与えました。
 ですが、僕が最も彼女から感銘を受けたのは試合が終わったあとのマット上での吉田選手に対する優しさでした。マルーリス選手は負けたショックで顔をクシャクシャにして泣きながら近づいてきた吉田選手を暖かく抱き留め一緒に涙したのです。そのときの彼女の涙はうれしさだけの涙ではありませんでした。
 通常、選手は試合が終わったあと、礼をしてそれからマットの中央まで進み握手をしたり、ときには身体を寄せて片方の手を相手の肩や背中に軽く回す姿が見られます。つまり、お互いを称えあう姿です。
 試合終了のブザーが鳴り、勝利が決定した瞬間にマルーリス選手が歓喜している様子がテレビ画面に映し出されていました。うれしさのあまり涙があふれてきたのもわかりました。そのときの涙はそれまでの努力が実ったうれし涙です。しかし、試合後にマット上で吉田選手を抱き留めているときの涙はうれしさの涙ではありませんでした。吉田選手を「いたわる」涙でした。
 吉田選手は金メダルを取ることを最低目標にしていました。ですから決勝戦での負けは想定していなかったはずです。敗戦が決まった瞬間、マットに触れ伏し背中を震わせていた姿がそのショックの大きさを物語っています。
 また、ショックの大きさは試合後に真っ先にお母さまのところに駆け寄り「お父ちゃんに怒られる!」という言葉からも十分伝わってきます。それほどショックを受けた敗戦でしたので試合が終わったあとにマット上でマルーリス選手と抱き合うときも涙が止まりませんでした。
 僕がマルーリス選手に感銘を受けたのはこのときのマルーリス選手の涙です。先に書きました星条旗を掲げての笑顔と一緒の涙はうれし涙です。しかし、吉田選手と抱き合ったときの涙は吉田選手と一緒に悲しんでいる涙でした。
 号泣しながらマルーリス選手に近づき肩に顔をうずめる吉田選手にマルーリス選手は「いたわり」の涙を流したのです。このときのマルーリス選手の涙は自分の勝利よりも吉田選手の悲しみ寄り添う涙でした。これほどやさしい涙があるでしょうか。自分のことよりも負けた相手のことを思い遣る気持ちです。これこそがスポーツの神髄です。
 だから、スポーツは素晴らしいのです。

 広島球場のファンの皆さんも同じです。悔しい気持ちを抑えて勝利した人に称賛の気持ちを表す姿勢が素晴らしいではありませんか。サッカーの本田選手が所属するチームのファンの対応について苦言を呈するニュースがありました。ミスをした選手に対する「ブーイングが目に余る」という内容でした。国民性の違いかもしれませんが、日本ではミスした選手にあからさまな批判や非難はあまりありません。ミスをした選手に対してもどこか寛容なところがあります。僕は、日本に生まれてよかった。

 スポーツに限らず生きている限り、競争や競合は避けて通れません。それが自然界の法則です。毎週日曜夜にNHKで「ダーウィンが来た」という番組を放映していますが、番組は自然界で生きていくことの厳しさを教えてくれます。自然界では競争が当たり前です。弱い者は消えていくしかありません。しかし、人間にはほかの生き物にはない知恵があります。その知恵を生かしてこそ人間の人間たる価値があるはずです。単に、「競争に勝利できるのみが生きる価値がある」というのではなく、「敗けたものでも生きる価値を見出させる世界」にするのが人間です。
 世界を見渡しますと、力の強い者が弱い者を虐げている例がいくつもあります。身近な例でもイジメなど弱い者を標的にした悪質な行為が伝えられています。障がい者施設で殺人事件もありました。そのようなニュースが伝えられることが多くなっているだけに広島のファンの方々のやさしさに心打たれた次第です。

 やっぱり、謙虚で優しい人が僕は好きだな。でも、自分がいつも理想通りに行動するとは限らないのが人間の不思議なところです。妻を見ていてそう気づきました。

 じゃ、また。

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2016年10月23日

<大谷 翔平選手>

 昨晩は久しぶりに野球をLiveで見ました。僕の年代ですと「Live」という言い方よりも「生」というほうがピン!ときますが、まぁとにかく「リアル」で見ました。「リアル」もおじさん臭いのかな…。
 それはともかく大谷選手が投げる姿を初めて見たのですが、とても22才とは思えない堂々としたマウンド捌きに驚きました。僕がこれまでに見た大谷選手はスポーツニュースでのハイライト場面だけでしたのでマウンド捌きを見るのは初めてでした。
 やはり器が違うとはこのことだと思いました。それを最も強く感じたのはホームランを打たれたときです。そのときの表情や振る舞いが堂々としていたのが印象的でした。

 久しぶりに野球をリアルで見たからでしょうか。大谷選手の投げる姿を見ていて僕は30年以上前の江川投手と大杉選手の対戦を思い出していました。当時は150kmを越える球速を投げられる投手はあまりいませんでした。そんな中、江川投手が試合の重要な場面でヤクルトの4番・大杉選手と対戦しました。
 この球界を代表する投手と打者の対戦はとても魅力的で見ている人を興奮させました。江川投手がツーストライクと追い込んだあと変化球ではなくストレート一本で押し通す姿が記憶に残っています。しかも、投げるたびにどんどんスピードが上がっていくのです。テレビ画面の右下に球速が表示されていたのですが、148kmあたりから150kmを越え、152km、153kmと150km越えを連発するのです。
 対する大杉選手も必死に食らいつき、かろじてかすったファールボールがバッグネットへ突き刺さる映像が今でも記憶に残っています。昭和の名勝負のひとつです。

 次に思い出したのが漫画「巨人の星」でした。「巨人の星」と言いますと、普通すぐに思い出すのは飛雄馬であり、一徹であり、伴宙太であり、花形満であり、左門豊作たちです。しかし、僕はなぜか的場君を思い出したのです。さて、読者の中で的場君を知っている人はなん人くらいいるでしょう。
 的場君は飛雄馬の高校の同窓生で運動系ではなく今でいうオタク系の登場人物です。いつもスケッチブックを持っていて絵を描いているキャラクターでした。飛雄馬との絡みは的場君が飛雄馬の投げる姿をスケッチしていて投球フォームの違いを指摘したことです。その後、的場君は飛雄馬が遭遇する大きな転換点のときに登場する人物として描かれています。
 野球漫画でありながらアーティスト系の分野の人まで登場させて物語を作るところが原作者・梶原さんのすごいところです。常々書いていますが、巨人の星は本当に奥が深いのです。今、流行りのキャッチコピー風にいうなら「人生のことはすべて巨人の星から学んだ」という感じです。
 僕は大谷選手の投げる姿を見ていて的場君を思い出したので、ネットで調べてみることにしました。今の時代は本当に便利です。なんでもネットで調べることができます。
 早速、Yafooで「巨人の星、的場」と検索したのですが、「巨人の星」については検索結果が出るのですが、残念なことに「的場」に関する情報が全く出てこないのです。いくらネットが万能とはいえすべてが調べられるわけではありません。これまでにも検索で調べられないこともありました。ですから、「的場」君はあまりにマニア過ぎて誰も情報を出していないという可能性もあります。
 しかし、やはりなんとなく納得できない部分もあります。「的場」君は全く情報が出ないほど「マニア」とは思えなかったからです。そこで、今度はgoogleで調べることにしました。するとひとつだけ「的場」が出てくるサイトがありました。

 やっぱり、あったんだ…。

 そして、僕はそのサイトで驚くべきことを知りました。なんと「的場」は正解ではなく本当の名前は「牧場」だったのです。飛雄馬の同窓生は「牧場春彦」君でした。しかし、そこで疑問が生じます。なぜ、「『的場』で検索に引っかかったのか?」です。
 その理由は、単行本の一箇所に誤って「的場」と書かれていたからです。その間違いを説明しているサイトがひっかかったのでした。すごいことに、その間違いは次の登場場面では修正されているそうですから、まさにたったの一箇所の間違いだったことになります。そのことが説明されていたことで僕の「的場」の検索に引っかかったのでした。偶然の賜物以外にありません。
 ノーベル賞をもらうような発見をした化学者が「実験を間違って、偶然に発見した」とコメントしていることがありますが、それと同じです。ノーベル賞を引き合いに出すのはおこがましいかな。(^^)ニコ

 そんなことが頭の中を駆け巡りながら野球を見ていたのですが、大谷選手は本当にすごかったです。大谷選手を見るためだけに球場に足を運ばせたりチャンネルを合わせたりさせる価値がある選手です。
 ツーボール、ノーストライクのあとにストレートをド真ん中に投げるのですから並大抵の選手ではありません。自信を持っている証拠です。しかも裏付けのない自信ではありません。ペナントレースでの実績が伴った自信です。
 冒頭にも書きましたが、本当の実力は打たれたあとに表れます。大谷選手はホームランを打たれたあとに全く動じていませんでした。オドオドした雰囲気など全く感じさせず反対に落ち着いていました。しかも、その前にサイン見逃しにより重盗を許してしまったというミスがあったあとです。普通なら試合を壊すような崩れ方をしてもおかしくない状況でした。
 高校を卒業して4年目の選手の振る舞いではありません。やはり器が違います。大リーグに行くのも時間の問題でしょうが、よほどのケガがなければ成功するのは間違いありません。
 大谷選手がプロに入ってから成長している要因のひとつに監督やコーチの存在が上げられます。もちろん大谷選手の素直な性格と頭のよさも大きな要因ですが、大谷選手を育てる側である監督・コーチの存在がとても重要です。その意味で評論家出身ですので根性主義に偏らず一般社会の波にも揉まれた経験のある栗山監督の存在は大きいものがありそうです。また、日本人選手の大リーグへの道を開いた野茂投手と仲が良く大リーグの経験もある吉井コーチの存在も大きなものがあるはずです。
 大リーグに行くにしても、今の日本人メジャー選手の中で若い世代の一番の先輩格はダルビッシュ選手だろうと想像していますが、同選手はいい意味で周りに流されることなく自分の道を突き進むタイプです。またダルビッシュの弟子ともいえそうな田中将大投手も自然体ですし、今年から参入した前田健太選手も同様です。こうした先輩たちが先陣を切っていますので大谷選手にも好影響を与えるように思います。

 若い好選手たち、頑張れ!

 じゃ、また。

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2016年10月16日

<普通の人>

 広告代理店の電通が女性新入社員が自殺した問題で注目を集めています。そして、その事件に関連してある大学教授が投稿したfacebookに非難が集中し炎上したそうです。この教授は「100時間くらいで過労死は情けない」 と書いていたのですが、もしかすると教授は新入社員に対して発したつもりはなかったのかもしれません。しかし、発信したタイミングと全体の流れからして炎上しても仕方なかったように思います。結局、教授はすぐに謝罪し削除したそうですが、SNSを利用する際の難しさを思い致されます。
 似たような出来事がほかにもありました。作家でもあり僧侶でもある瀬戸内寂聴さんが日弁連が開催した死刑制度に関するシンポジウムへのビデオメッセージの発言がやはり批判を浴びました。寂聴さんは死刑制度に反対の立場の人ですが、ついつい気持ちが強くなりすぎて勢い余って刺激的な言葉になってしまったのだと思います。
 寂聴さんは「人を殺したがる馬鹿どもと戦ってください」とメッセージを出していました。このメッセージに対して全国犯罪被害者の会(あすの会)のメンバーや支援する弁護士の方々が「被害者の気持ちを踏みにじる言葉だ」と反発したことが全体の流れです。
 結局、寂聴さんが「言葉足らず」と自らの非を認め、謝罪したことで問題は収束しそうです。寂聴さんの弁によりますと、もちろん被害者の遺族を「馬鹿呼ばわり」するつもりなど毛頭なく、政府や制度に対しての「馬鹿」発言だったそうです。この騒動が収束に向かっているのは寂聴さんが作家のプライドに固執せず、謙虚な姿勢で対応したことが大きいように思います。謙虚は大切です。
 話は戻りますが、実は僕は大学教授の意見もわからないではありません。もちろん新入社員を追い詰めた上司や電通には真摯に責任に向かい合ってほしいですが、仕事に対する姿勢という点では真っ当な意見のように思います。
 大リーグで活躍しているイチロー選手はすでにレジェンドの地位にまで上りつめていますが、そこに行くまでには日々のたゆまぬ努力があったはずです。インタビューなどで「誰よりも練習していることを自負している」と語っていますが、イチロー選手の野球に取り組む姿勢はビジネス書の自己啓発本などでも取り上げられているほどです。
 簡単に言ってしまうと、「ほかの誰よりも練習、努力することが成功を導く」ということに尽きます。以前、イチロー選手の3000本安打達成にヤンキースのジーター選手が称賛するメッセージを発していました。そこにはほかの選手が休んでいるときにさえ球場でひとり黙々と練習していたイチロー選手の姿を綴っていました。やはりイチロー選手はどのチームに行っても誰よりも練習していたようです。
 イチロー選手の野球に対する姿勢や考え方について解説している書籍はたくさんあります。それらの本に共通しているのは「努力」です。単なる「努力」ではなく、ほかの誰よりも多くしている「努力」です。その言葉は大学教授が書いていた「100時間くらいで過労死は情けない」という考え方に通底しているように思います。
 もし、イチロー選手が「100時間くらいで過労死は情けない」と語っていたなら、世の中の人はどのように反応するのでしょう。

 電通の新入女性社員は自殺に追い込まれたのですが、親御さんの気持ちを思うとやりきれない気持ちになります。新聞報道では決行する1週間前にお母さまと電話でお話していたそうです。たぶんお母さまは自分を責めて責めて責めているはずです。
「なぜ、あのとき…」
 繰り返しになりますが、上司や電通の責任は重いものがあります。特に直接の上司の責任は免れません。人ひとりの命が亡くなったことを重く受け止めてほしいと思います。しかし、先ほどの大学教授ではありませんが、たぶん大企業に勤める多くのビジネスマンは同じような発想を持っているではないでしょうか。
 因みに、先の大学教授は教授になる前は東芝の要職に就いており、その後も経営の立場で幾つかの企業を経験しています。つまり、エリート層に属する人です。エリートの人たちはイチローの発想が頭と身体に染みついています。
「並外れた努力をできない者は仕事をする資格がない」。
 
 僕が学生時代にヒットした映画のひとつに「愛と青春の旅立ち」という映画がありました。リチャード・ギアの出世作ですが、主人公が海軍士官養成学校で奮闘する姿に恋を絡めた感動する映画でしたが、映画の中で僕が最も印象に残っているのは幹部を選抜する士官養成学校の厳しさでした。
 「厳しい」を通り越した過酷な訓練に耐え抜いた者だけが卒業できるというシステムです。映画ではその辛く苦しい訓練場面を映画いていましたが、同時に過酷な訓練に耐え抜いた者に対する尊敬の念も描いていました。訓練中はボロクソに接していた上官が卒業式の最後に元訓練生に対して直立姿勢をとり、士官として敬意を示す態度がそれを表していました。卒業した瞬間に立場が入れ替わるのです。しかも、上官はそれを当然のように受け入れている姿になんともいえない心地よさを感じました。僕は基本的に運動大好き人間で、運動部によくある上下関係が嫌いではないという資質も大きく影響していると思います。

 最近僕が好感しているビジネス関連の本を書いている方に常見陽平さんという方がいます。以前、本を紹介したことがありますし、今週も紹介していますが、この方は元リクルートの方です。以前このコラムで起業する人の多くに元リクルートの社員とIBMの社員が多いと紹介したことがあります。これらの方に共通する人はとにかく桁外れに働くということです。
 基本的に起業をするような人たちはそれこそ「100時間くらいで過労死は情けない」という考えの持ち主が多いのが実際のところです。反対に言いますと、そのくらいの気概を持っていませんと、起業など成功できません。正直に告白しますと、僕も脱サラを決行した人間ですので、40代くらいまで同じような発想でいました。
 僕の場合は実力が伴わず途中で挫折しましたのでこの考えに疑問を持つようになりましたが、もし、僕に実力があって成功が続いていたならまだ「100時間くらいで過労死は情けない」と考えていたかもしれません。
 常見さんに僕が好感したのはこの方が「世の中は普通の人で動いている」と指摘していたからです。そうなんです。イチロー選手の功績は素晴らしくその野球に取り組む姿勢や考え方や努力する様は称賛されるべきです。ですが、忘れてならないのはイチロー選手が活躍する姿を見て喜び、感動し、応援しているのは「普通の人々」だということです。

 「普通の人」をないがしろにしたり、追い詰めたりする社会にイチロー選手のようなスーパースターは存在することはできません。なぜなら、観客がいなくなるからです。エリートの人たちはエリートだけでは社会が成り立たないことを忘れないでください。

 じゃ、また。


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posted by satoaki at 19:26 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月09日

<臭覚障害>

 僕はここ1年あまり「臭いを感じることができない」病気でした。正式には臭覚障害というそうですが、最初にこの症状が出たのは今から4年くらい前です。ちょうどこの時期は喘息が起きたり心臓に異常が見つかるなどいろいろな病気の症状が出た頃です。ちょうどその頃に臭覚障害も発症しました。
 当時このコラムでも書いていますが、臭覚障害の根本的原因は副鼻腔炎です。昔の呼び方でいいますと蓄膿症です。副鼻腔炎により鼻の中に大きなポリープができ、そのポリープが空気の通り道を塞いだことが原因です。臭いを感じるセンサーは鼻のずっと奥の上辺にあるそうです。外から示しますと、目と目の間の少し下あたりですが、そこのセンサーをポリープが「塞いだ」か「隠した」ことが理由のようでした。
 鼻関連の病気で最も辛いのは「鼻づまり」です。なにが辛いかといいますと、鼻呼吸ができないことです。世の中にはいろいろな人がいますから、自分が呼吸をしているのが「鼻から」なのか「口から」なのかを意識することさえしていない人がいても不思議ではありません。しかし、人間は鼻呼吸が基本のはずです。なにしろ鼻毛は気体状の異物が体内に入り込むのを防ぐためにあるくらいですから、鼻で呼吸をするのが人間の本来の呼吸法であるはずです。
 僕に関していいますと、僕は鼻で呼吸ができないとイライラしてものごとに集中できなくなります。これがとても辛いのです。また鼻で呼吸ができませんと、気持ち的ににスッキリしないのです。息を吸いそして吐いてもそれが鼻からではなく口からでは呼吸をした気分にならないのです。これほど辛く苦しいことはありません。
 僕は喘息持ちでもありますが、喘息は夜中に発症することが多い病気です。実は喘息と副鼻腔炎は無関係ではなく、喘息持ちの人の大半は副鼻腔炎も発症しているといわれています。まさしく僕はその状態だったわけですが、夜中に喘息が発症しますと、呼吸ができなくなりそうな錯覚に襲われることもあります。
 このときに体験したのですが、人間は呼吸ができなくなりそうになると、どうしてもできるだけ息を「吸おう、吸おう」とします。息ができないのですからそうなるのは当然といえば当然です。しかし、実は息ができなくて苦しいのは、「吸えない」からではなく「吐けない」からです。ですから、呼吸で苦しい時は「吸う」ことに注力するのはなくできるだけゆっくりと「吐く」ようにすることが大切です。僕は喘息を治めるためにこのことを学びました。

 僕の鼻呼吸を困難にしていたのはポリープですが、家の近くの耳鼻咽喉科から紹介された大学病院では副鼻腔炎の手術を勧められました。大学病院の先生の説明では2週間の入院で治療費は30万円といわれまた。やはりこれほど大掛かりに手術となりますと二の足を踏みます。僕はどうしても踏ん切りがつかずいろいろと理由をつけて手術を避けていました。
 ポリープはいつも大きくなっているわけではありません。薬の服用や点鼻薬で小さくなることもあります。ポリープが小さくなっているときは鼻で息をすることができますので苦しさを感じることはありません。ですから、調子のいいときを見計らって大学病院での治療は一応終了という形にしてもらいました。
 しかし、臭覚障害は残ったままでしたし、風邪やアレルギーなどなにかのきっかけでポリープが大きくなることもありました。そうしたときにある薬剤師さんから自宅から少しばかり離れてはいましたが、評判のよい耳鼻咽喉科を教えてもらいました。早速その診療所に行きますと、処方された薬が僕に合っていたらしくポリープも小さくなり、なんと臭いまでもが復活したのです。あのときほどうれしかったことはありませんでした。
 このときは鼻の空気の通りも快調でしたし、臭いも復活していましたので快適な生活を送っていました。しかし、悲しいことに3か月ほどしますと、また臭いを感じなくなり、しかもポリープが大きくなったようでもありました。
 それから僕は先ほどの診療所に定期的に通うようになるのですが、実は症状は一進一退でした。ポリープは大きくなったり小さくなったりを繰り返していたのですが、先生の雰囲気から「もうこれ以上は無理…」のようなものを感じました。そこでほかになにかいい方法はないものかとネットで調べていたときに見つけたのがポリープだけを取り除く手術の存在でした。この手術のメリットは、副鼻腔炎の手術とは異なり日帰りで手術をできることでした。「日帰り」という表現も大げさで、手術時間は片方で10分ほどです。費用も数千円で済みました。このときの顛末を以前書いていますので詳しくはそれをお読みください。
 さて、ポリープ除去手術も無事に済み、鼻呼吸はとても快調にできるようになりました。しかし、悲しいことに臭いは復活しなかったのです。実は、その時点の僕の気持ちとしては鼻呼吸さえ治るなら「臭覚くらい感じなくても問題ない」というものでした。それほど鼻呼吸を渇望していたのです。ですから、ポリープ除去手術をしたのが昨年の初めの頃ですから1年以上臭覚障害の状態が続いていました。鼻呼吸ができるだけで幸せと感じていたからです。
 それにしても不思議です。人間というのは元来が贅沢にできているのでしょう。僕は鼻呼吸が当たり前になってきますと、「臭いも感じるようになりたい」と強く思うようになりました。つまり臭覚障害を治したいと本気で考えるようになったのでした。
 臭覚障害にはその原因が3つあるといわれています。
1つめが僕のようにセンサーが隠されている状態です。センサーが隠されていますので臭いがセンサーまで届かないことが原因です。
2つめがセンサー自身に問題が起きている状態です。センサーがセンサーとしての機能を果たしていないことになりますからセンサーが故障していることになります。
3つめがセンサーから脳へ伝達する神経が異常をきたしている状態です。または受け取る側の脳に問題があるケースもあります。

 以前、先生から臭覚障害を放置しておくと「治りにくくなる」と忠告を受けたことがあります。前回、僕は点鼻薬で臭覚障害を治しましたが、あまりに長期に渡って治療をしていませんと、センサーに異常が発生することもあるそうです。僕はそのことが気になっていました。臭覚障害になって1年以上が過ぎているからです。
 不安な気持ちを抱えつつ、日帰り手術をした病院に行きますと先生は臭覚障害になった時期を尋ねてきました。そして、僕の返答を聞いておっしゃいました。

「1年以上も経つとどうかなぁ…」

 今回の治療法も前回一時期臭いが復活したときのものと同じ点鼻薬を使うものでした。名前をリンデロンといいます。この薬はとても効果があるものなのですが、使い方を正確にしませんと効果が現れないそうです。溶液を正確にセンサーまで届かせることが大切です。そのためには、頭をできるだけうしろに倒して溶液が鼻の奥の上辺にまで届くような姿勢にすることです。そして、あとひとつ重要なことは2分以上その態勢を保つことでした。

 結論をいいますと、現在僕は臭いが復活しています。5日めくらいでしょうか。いつも行くスーパーに入った瞬間にコーヒーの臭いがしたのでした。このスーパーは店内入口のところで煎れたてのコーヒーを売っているのですが、そのコーヒーの臭いを感じることができたのでした。
 臭いを感じるって「すごい!」ことです。これで少しは「おやじ臭さ」を自重できるかもしれません。

 じゃ、また。

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posted by satoaki at 19:46 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月02日

<関心>

 東日本大震災が起きてからかれこれ5年以上が過ぎましたが、ニュースなどを見ていますとまだまだ復興半ばの状況であることが伝えられています。しかし、東京で暮らしていますと東北の人たちの苦境に対して関心が薄れていっているのが実際のところです。
 また今年4月には熊本でも大きな地震が起きましたのでそちらのほうに注目が移ったことも影響しているかもしれません。次から次にいろいろなことが起きますとやはり関心が移るのは仕方のないことかもしれません。
 東日本大震災がほかの災害と異なる一番の点は放射能被害があることです。放射能に汚染された地域に住んでいた方々は移住を余儀なくされたりなど多くの困難に遭遇しています。このように放射能による直接的な被害も大きな損害を与えていますが、それと同じくらい、もしかするとそれ以上に被害を与えていることがあります。それは風評被害です。
 僕は大震災が起きたあと果物の移動販売をしていました。その際に東北を応援する意味合いで東北地方の果物を扱っていました。もちろん公的な審査を通過したうえで安全を証明されたものだけを扱っていました。安全をアピールするために、問屋さんからもらった証明証を掲示するなどして安全性を強調していました。しかし、「福島産」とポップに表示しているだけで避ける人が大半でした。わざわざ「東北のものは恐いから」と忠言する人までいました。
 当時、マスコミでは頻繁に「東北を応援しよう!」などと伝えていましたし、世の中の雰囲気としては「東北がんばれ!」といった風潮がありました。ですが、普通に暮らす生活の中では違う風が流れていました。残念ながら、これが社会の現実です。
 中には、現実の風とは正反対に「応援したいから」と購入してくださる人もいました。そのような人は社会の現実に対して「憤りを感じている」と口にしていました。しかし、全体の割合でいいますと、このような奇特な人の割合は少数でした。

 最近のニュースでよく見かけるのが保育園問題です。しかし、これまでのような「待機児童」の問題ではありません。「待機児童」を解消するための方策がとん挫しているニュースです。
 待機児童を解消するには保育園を増やすしか方法はありません。しかし、保育園を増やすのは簡単ではないようです。理由は、新たに作られる保育園の近隣住民の強い反対があるからです。
 反対の理由としては「車の通りが多くて危険」とか「道路が狭い」など保育園の機能面における不適正さを上げていますが、そのさらに奥には「自宅付近が騒々しくなる」ことに対する懸念があるように感じます。
 以前、小学校近くの住民が学校のチャイムがうるさいとクレームをつけたニュースがありました。学校に限らず子供たちが集まる施設は近隣の住民にとっては不快に感じることもあることは間違いありません。
 ここで僕は保育園開設に反対している住民の人たちを非難したいのではありません。それをも含んで解決する方法を社会全体で考えることの必要性を訴えたいのです。みんなが直接自分とは関係のないことに対して無関心であることは究極的には社会全体が不安定になることであり、その状況が引いては個人の生活に影響を及ぼすからです。
 現在、世界では至るところでテロが起きており、納まる気配がありません。普通に考えてテロを防ぐことは不可能です。テロの究極の形である自爆テロなどは自分の体を犠牲にして行うのですから防ぎようがありません。どんなに科学や技術が進歩しようが日常生活の中に入り混んで行うテロですから防ぐことは不可能です。
 自爆テロを防ぐには個人の生活を監視する以外に方法はありませんが、そのような社会は幸せな社会ではありません。未来小説で語られていた国家が個人を監視する社会です。SFの世界が現実味を帯びてくるのでしょうか。

 東京では築地市場の移転先である豊洲市場に関心が集まっています。ですから、沖縄の米軍基地問題のニュースは大きく取り上げられていません。そんな中、鶴保康介沖縄・北方担当大臣が記者とのやり取りの中で米軍基地問題を「片づける」という言葉で表現していたことが報じられました。
 この記事を読んだときに頭に浮かんだのが、自民党の石原伸晃議員が福島の中間処理施設の建設計画を巡って、記者から質問された際に「最後は金目(かねめ)でしょ」と発言したニュースです。
 どちらも心の中で思っている本音がつい口からこぼれ出てしまった感があります。つまり、両者とも真剣に弱者の気持ちを慮る気持ちに欠けていることが証明されたように思います。米軍基地で苦しんでいる沖縄県民の気持ちに少しでも寄り添う気持ちがあるなら決して「片づける」などという言葉は使えないはずです。
 このことは沖縄以外に住んでいる国民も肝に銘ずる必要があります。沖縄には日本にある米軍基地の75%が集中しているのです。この現実を本土の人たちは忘れてはいけません。
 保育園は必要ですが、保育園が開設されることで生活の平穏さが脅かされるなら誰でも反対したくなります。自分の住んでいるところが保育園開設と関係がないからといって無関心でいることは「最終的にはテロを増やすことにつながるということと同じ」という気持ちを持つことが大切です。
 米国では大統領選の真っただ中ですが、世界にとって危険な人物が世界の覇権を持っている国家の大統領に就くことはとても不安です。僕としてはそのような人物が大統領候補にまでなったこと自体が問題だと思っています。
 一時期、民度という言葉が使われました。民度とは「特定の地域に住む人々の知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指す」指標ですが、民主主義がきちんと機能するために必要な要素です。これまでは米国は民度が高い国家と思われていましたが、トランプ氏が大統領候補になることを見ていますと、民度が低くなっているのかもしれません。
 トランプ氏が大統領候補にまで上りつめた背景にはポピュリズムがあると言われています。口当たりのいいことに惑わされる人が多いことを示していますが、そこには自分以外のことには無関心であることが根底にあるように思います。もし、真剣に自分のことだけではなく社会全体に対して関心を持っているなら口当たりのいいことだけでは世の中が成り立たないのは明らかです。

 豊洲問題の核心も無関心に尽きるように思います。都職員が豊洲の安全性について真剣に関心を持っていたなら「いつ、だれが、どこで」決定したかわからないような地下空間問題など起きなったでしょう。ただ日々の仕事に流されるだけで業務を行っていたから起きた問題です。無責任という言葉も当てはまります。

 仕事において業務に関心を持つのは当然ですが、仕事以外でも社会に対して関心を持つことは大切です。先月、聖人と認定されたマザー・テレサが語っていました。

「愛の反対語は無関心である」

 自分とは関係ない出来事と思っていても、どこかに不公平や不満があるならそれらが蓄積されて最終的には自分の身に降りかかってくることは、今、世界のあらゆるところで起きているテロが証明しています。

 社会に関心を持つことは大切です。夫婦も同じです。相手に関心を持たなくなることは別れの前兆です。その点、僕は35年経った今でも妻から文句を言われてられてばかりですから関心を持たれている証拠です、…よね。

 じゃ、また。

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posted by satoaki at 21:27 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月25日

<引き際>

 リオでパラリンピックも終了し、スポーツの祭典が終わりました。スポーツの素晴らしさは肉体を駆使して頑張っている姿が見ている人に感動を与えるところです。肉体というシンプルなものだけで戦う姿が人々の心を揺さぶるのだと思います。
 しかし、今大会は始まる前からドーピング問題で物議を醸していました。ドーピング問題は肉体というシンプルなもので戦うことを台無しにする行為です。簡単に言ってしまうなら、肉体をロボット化することで人間の機能を上げることです。これでは見る人の心を感動させることはできません。
 ドーピングは言うまでもありませんが、パラリンピックの記事で気になることがありました。それは金メダルを獲得できなかった選手が婉曲的はありますが、道具や器具の性能で勝敗が決まってしまうことを示唆していたことです。表現が婉曲的だったこともありますし、マスコミも大々的には報じませんので大きな問題にはなりませんでしたが、パラリンピックのあり方が問われる問題であることは確かなように思います。
 例えば、車椅子を使う競技の場合、車椅子の製作に一千万円以上をつぎ込むことができる選手と100万円くらいしかかけられない選手では運動能力の優劣だけではない要素が影響するのは当然です。このような不公平な状況で戦うことは健常者がドーピングで優勝することと同じになってしまいます。なにかしらの対応が必要な時期になってきています。
 人々がスポーツに感動するのは「努力する姿」が素晴らしいからです。これはスポーツに限らず勉強でも言えます。勉強の世界でも「東大卒」が一目置かれるのは「必死に勉強したこと」が想像できるからです。もちろん元々持っている才能のおかげで「東大卒」になる人もいますが、それはスポーツの世界でも同じです。才能のない人はスポーツでも頂点に立つことはできません。
 野球界のレジェンドである野村克也氏が「プロ野球にはそれまでエースで四番だった人が集まってくる」と話していますが、才能がある人の集まりの中で更に才能がある人が努力をすることでようやっと一流の選手になれます。反対に言うなら、それまでエースで四番だった人がさらにレベルの高い世界では平凡になり、違う世界に方向転換を余儀なくされていることになります。
 子供の頃に読んだ「巨人の星」は僕にいろいろなことを教えてくれましたが、主人公の飛雄馬が2軍時代の話が記憶に残っています。2軍という境遇は1軍を目指して若い選手が目の色を変えて必死に努力しなければいけない世界ですが、2軍生活に慣れてしまう選手がいるそうです。
 ある意味、1軍に上がりプレッシャーの中で結果だけを求められる苦しさがない分、楽に感じることがあるかもしれません。努力をしているように見せかけて心の中では2軍という安住の地にいることに満足している選手です。「巨人の星」は子供向けの漫画でしたが、人生について考えさせる高度なことも教えていました。
 少し前に巨人の若手選手が賭博で事件を起こしましたが、この事件が報じられたとき、僕はすぐに巨人の星のこの話が思い浮かびました。2軍を安住の地と感じるようになってしまっていたことがこの事件の根源にあるように思います。1軍を目指すという緊張感を持って日々を励んでいたなら賭博などに手を染めることはなかったはずです。
 先に野村氏の言葉で紹介しましたようにプロ野球には「エースで四番だった」選手が集まってきますので、才能の壁やケガなどで平凡な選手になってしまう選手が否応なく出てきます。僕は毎年年末に放映されるプロ野球界から去らざるを得なくなった選手を取り上げる番組を見ていますが、どの時点で「あきらめる」かはとても難しい問題です。
 先週、「ハマの番長」ことDeNAの三浦大輔投手が引退を発表しましたが、プロ野球選手の辞め時はとても難しいものがあります。三浦選手は球団から好かれていましたので進退を自分で決めることができましたが、2軍の選手となりますと一方的に契約を解除されておしまいです。そのときに選手として続けるのか違う道に進むのか悩むところです。先に年末のテレビ番組ではその葛藤をドキュメンタリー調で放映していました。
 引き際が難しいのは「あと少し頑張ればもしかしたら結果が出るかも」と思うからです。実際、先のことは人間は誰もわかりません。昔から言われるように「神のみぞ知る」の世界です。ですから、自分に期待する部分が強い人ほど「あと少し」と思ってしまうものです。しかし、運よく結果が出たならいいですが、それはほんのわずかの確率です。しかし、ゼロではありません。そこが自分に期待を持たせてしまう悩ましいところです。
 今から20年以上前のことですが、ラーメン店を営んでいたときたまに飛び込み営業の新人さんが来ました。時期は4月〜5月頃が多かったでしょうか。新社会人の人たちが一斉に営業の修行に出ていたのでした。
 だいたいパターンは決まっていてお店の社判を押してもらうものでした。つまり1日に飛び込み営業をするノルマがあり、それを達成するための訪問でした。
 今は本屋さんに行きましても飛び込み営業関連の本はあまり見かけません。たぶん昔ほど飛び込み営業を取り入れている企業が減ってきているのでしょう。求人広告などを読みましても営業募集でありながら「飛び込み営業一切なし」と書いてある広告が多いように思います。
 しかし、昔は「営業の基本は飛び込みから」が主流でしたから営業やセールスに関連する書籍には「飛び込み営業のコツ」などを伝授した本がたくさんありました。そうした本に共通しているのが「あきらめない」ことでした。
 例えば、「100軒飛び込んでダメだったとしても、次の101軒目で契約が取れるかもしれない」という叱咤激励の文章をよく見かけました。本を出すのは営業マンとして成功した人ばかりですからこのように根性を前面に出して結果を残してきた人たちです。
 ここが本当に難しいところで、確かに101軒目で成約することもないことはないでしょう。しかし、次の101軒目に必ず契約が取れるとは限りません。

 日銀の黒田総裁が21日の金融政策決定会合を受けて記者会見を行いました。結局、緩和策を継続するようですが、この金融緩和策もいつまで継続していいのか悩ましいところです。黒田総裁としては金融緩和をやめることは自らのミスを認めることになりますので簡単に政策を変更することはできません。しかし、最初に示していた2年で2%の物価上昇という目標はすでに過ぎています。これも引き際の難しさを表しています。
 同じように引き際の難しさを表しているのが高速増殖炉「もんじゅ」です。これなどは「引き際」などという言葉では言い表せないほど複雑なサイクルの中に組み込まれています。これまで幾度も廃炉の方向へ舵を切りかけてはいろいろな抵抗に遭い、結局止めることができずに現在に至っています。
 普通の感覚で考えるなら、1983年の原子炉設置許可から33年、94年の初臨界から22年の間、わずか250日しか実働しておらず、しかも1兆2000億円も予算が投じられてきたのですからやめるのが常識的な判断です。日銀も無責任な気がしますが、「もんじゅ」はさらにその上を行きます。しかし、原子力村の人たちはこの期に及んでまだ研究の余地を残そうと画策しているようですが、いったい誰が責任を負うつもりなのでしょうか。
 僕から言わせますと、ここまできますと博打と同じです。パチンコでさえずっと打ち続けていたならいつかは「出る」ことがあるかもしれません。競馬でも外れてばかりいてもずっと続けていたならいつかは「当たり馬券」を買えるかもしれません。しかし、「出る」ことになっても「当たり馬券」を掴んでもそれまでにつぎ込んだお金を回収するまでは儲からないのが博打の恐ろしさです。
 株は博打ではありませんが、似たような状況になることは頻繁にあります。株価が下がり続けてもいつか反転するかもしれませんし、なにかのきっかけで反転どころかそれまでの最高値になることもあり得るのが株です。しかし、先のことは「神のみぞ知る」です。
 株の世界では一時は大資産家になっても一気に奈落の底に落ちるのはよく聞く話です。株の解説本などを読みますと、必ず書いてあるのが「損切り」です。どこかで決断をすることの重要性を説いています。

 政府もようやっと「損切り」をする決断ができたようですが、これが可能なのも、実は、安倍首相の一強状態がなせる業でもあるように思っています。基盤の弱い政権なら抵抗勢力に押し返された可能性があるからです。なにが幸いするかわからないのも「神のみぞ知る」です。

 じゃ、また。

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posted by satoaki at 19:25 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月18日

<感動ポルノ>


 僕が、最近最も関心を持った言葉は「感動ポルノ」という言葉です。ご存知の方も多いかもしれませんが、日本テレビの24時間テレビに対抗して放映された裏番組の『バリバラ』(Eテレ)が発端です。この言葉は車いす生活を送りながらもコメディアンまたはジャーナリストとして活躍していたのステラ・ヤングさんという方が講演で使った言葉だそうです。
 この言葉の解説としては「感動」するわたしたち──『24時間テレビ』と「感動ポルノ」批判をめぐって(http://synodos.jp/info/17888)がわかりやすいので参考になります。
 ステラさんは講演のスピーチが素晴らしくて注目されるようになったのですが、その講演の日本語版のサイトも紹介しておきます。
Logmi(http://logmi.jp/34434)
 ステラさんは残念ながら2014年12月にお亡くなりになっていますが、生涯をかけて「単刀直入な切り口で障害者問題に対する社会の理解を啓発してきた。同時に時には挑発的な語り口で聴衆をわかせ、笑わせながら障害者をかわいそうな人としてみるのではなく、対等な人間として見ることを気づかせていた。」
(http://nichigopress.jp/ausnews/entertainment/84461/より引用)そうです。
 解説によりますと、原語は「inspiration porn」だそうですが、これを「感動ポルノ」と訳した日本語訳も秀逸です。もし普通に直訳していたならこれほど注目されなかったかもしれません。
 感動ポルノの問題点は
「健常者が良い気分になれるように、障害者をネガティブな存在としてモノ扱いしています。自分の抱えている問題が大した困難ではないと、違う角度から見られるようにするためです。」
 に尽きると思います。

 感動ポルノに限らず、僕が最近テレビに興味を持たなくなったのは無理やりな演出があまりに「過ぎる」からです。テレビ局は最初に企画を立て筋書きを決めるとその通りになるように番組を制作しているように感じます。
 僕は昨年ラーメン店の失敗を扱う番組で1時間ほどの電話取材を受けましたが、質問の内容も核心を突くようなものはなく、また放映された番組を見ましたが、バラエティ番組としての落としどころに納まるように作られている印象を受けました。あの番組を見た視聴者の人たちはあの内容を真実と捉えてしまうと思うと納得できないものがありました。
 少し前にこのコラムで取り上げましたが、同じ局の勝ち抜きを争う番組で実際とは異なる結果を放映した事件がありました。出場者のひとりをCGで消すというあまりに悪質なやり方でしたが、このときはほかの出演者の証言などもありましたのテレビ局は「演出」を認め謝罪を表明せざるを得ない状況に追い込まれました。しかし、僕からしますと「演出」ではなく「捏造」です。他局ですが、数年前に捏造が発覚して番組が打ち切りになった「あるある立事典」の事件があったあともこのような捏造が行われていたことが残念でなりません。

 マンションが傾いた事件について新聞に記事が載っていました。その中で印象に残っているのが管理組合の弁護士が「この事件が解決に向かっているのはマスコミのおかげ」と話していることでした。このときは主に新聞ですが、マスコミがこの問題を報じ続けてくれたことが不動産会社側の譲歩を引き出すことができたそうです。大企業であろうとも注目が集まっている中ではごり押しをできるものではありません。一歩間違えるなら批判が集中し企業の存続にも影響を与えかねません。社会の注目を集めることは大きな効果があります。

 富山市では市議が相次いで辞職をしています。理由は政務活動費を不正に請求していたからですが、この事件もマスコミが報じなければ表に出ることもなかったように思います。不正請求を行っていた議員は与党野党を問わずですから、議会が不正を追及することは不可能だったでしょう。その意味で言いますと、マスコミの意義はとても大きなものがあります。

 NHKの貧困問題を扱った番組が視聴者の反発を招き、炎上にまで発展した事件がありました。炎上したきっかけは番組内に貧困の当事者として登場した女子高校生の生活ぶりが貧困でないと判断されたことです。映像に映った部屋の様子に敏感に反応した視聴者がネットをいろいろと検索して貧困でない実態を晒すことになりました。
 貧困に対する判断は人それぞれでしょうが、僕からしますとやはり好きなアーティストのCDを買ったりコンサートに行ったりする人は貧困の範疇には入らないと思います。先ほど紹介したバラエティ番組と同じように、この番組でも製作者側が意図する内容になるように安易に番組を作った雰囲気を感じます。それを象徴しているのが批判を浴びることになった貧困女子高生です。もっと時間をかけて丁寧に探すなら本当の貧困女子高生が見つかったはずです。手抜きの印象を持ったのは僕だけではないでしょう。


 障がい者問題を感動ポルノにするかどうかはマスコミの姿勢にかかっています。マスコミがなにかしらの理由で中立な立ち位置に立たないとき、事実はゆがめられ誤った風潮が醸し出され、または見当違いな風景が生まれる可能性もあります。
 なにかしらの理由には、もしかすると政治的な圧迫があるかもしれませんし、予算とか時間またはモチベーションといった精神的な部分の製作者側の都合があるかもしれません。しかし、どんな理由であろうともそれは言い訳にはなりません。マスコミの伝えることは世の中の人の心に刻み込まれる運命があるからです。風評被害がその最たる例です。
 このようにマスコミは自らの力の大きさを自覚する義務がありますが、同様に受ける側もマスコミの姿勢に敏感である感性を持っている必要があります。その感性を磨くために常に自らを省みる謙虚な気持ちが大切です。なぜなら、

「私たちが障害者の姿に感動しているのは、心のどこかで彼らを見下しているからかもしれません」(Logmiより引用)

 からです。

 じゃ、また。

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