2018年10月14日

<「三度目の殺人」を見て思ったこと>

僕が昨年あたりから気になっているニュースはジャーナリストに危害が加えられる事件が続いていることです。先週はブルガリアの女性記者が暴行されたうえに殺害される事件がありました。昨年末にも地中海の小国マルタでやはり女性ジャーナリストが殺害されています。女性だけに限りません。先週はトルコでサウジアラビアのジャーナリストがサウジ総領事館に入ったまま消息を絶っている事件が報道されました。ロシアでは永い間ジャーナリストが殺害される事件が起きています。

これらの事件に共通するのは、殺害された記者の方々が権力者を批判または追及していたことです。ドラマや映画などで見ることはありますが、現実に起きていることに小市民の僕としては驚かされます。しかし、よくよく考えてみますと、ドラマや映画になること自体がそれらの事件が現実に起きていることを示しているとも言えます。

ジャーナリストの使命は世の中で起きていることを社会に伝えることですが、その立ち位置の視点が権力者側にあるか生活者側にあるかで内容は変わってきます。もちろん、楽なのは権力者側の視点で伝えることです。しかし、それではジャーナリストの意味がなくなってしまいます。

権力者にしても生活者にしても、自分たちに「理がある」あることを訴えたいはずですが、権力者と生活者の力の関係からしますと圧倒的に権力者のほうが有利です。最近のジャーナリストの殺害はそれを示しています。この力の不均衡を修正するためにジャーナリストが存在する意義があります。そのジャーナリストに危害が加えられている現状は社会が不安定になるきっかけになりそうで不穏な空気を感じます。

日本はまだジャーナリストに危害が加えられるほど危険な社会ではありません。ですが、少しずつ少しずつジャーナリストへの圧力が強まりそうな雰囲気を感じます。もちろん、生活者の視点のジャーナリストに対してです。

いわゆる御用記者の方々が権力者寄りの報道をするのは当然ですので、生活者の視点のジャーナリストの方々の取材が制限されないようになる社会を望んでいます。そのためには生活者である私たちが関心を持つことが大切です。特に、多くの若いごく普通の人たちが政治や経済に関心を持つことが大切です。自由に暮らせる社会を作るのは国民一人一人の意識にかかっているといっても過言ではありません。若い皆さん、社会に関心を持ちましょう。

…てな、ことを思っている僕は昨晩「三度目の殺人」という映画を見ました。僕は「誰も知らない」以来の是枝監督ファンですが、なんとも重苦しい映画でした。基本的に、是枝監督の作品は弱者に寄り沿う映画が多く、観る人に考えさせる内容がが多いですが、今作は特にその傾向が強かった感があります。

結末が断定的に描かれていないのが大きな理由ですが、観る人により真実が異なっているように想像します。それにしてもこの映画にはいろいろな要素が積め込まれていました。古い話になりますが、かつて大手食品会社が起こした偽装牛肉事件も入っていましたし、古くて新しい問題である家族間の事件も入っていましたし、法曹界の問題点についても描かれていました。

僕的には、少し積め込み過ぎのような印象を持ちましたが、是枝監督がこれまで生きてきた中で、自分の中に溜まっていた問題を作品に入れたかったのかもしれません。裁判を扱った映画に周防監督の「それでもボクはやってない」という作品があります。この作品は冤罪について追及する内容でした。それに比べますと、「三度目…」は法曹界全体を俯瞰した問題提起のように思います。是枝監督は法曹界に対しても違和感を持っているのでしょう。

さらに深く考えますと、是枝監督は法曹界というよりも「人が人を裁く」という制度自体に疑問を投げかけているように思います。容疑者である三隅が意見を二転三転させているのはその制度の問題点をあぶりだすためとも取れなくもありません。死刑判決を受けたにもかかわらず裁判のあとに両手で重盛の手を握り締めて「ありがとうございました」とお礼を言う行為がそれを物語っているように思いました。

是枝監督は死刑廃止論者のようですが、この作品はまさにそれを主張しているとも取れます。「三度目」とは死刑制度のことです。このような作品を観ますと、僕はどうしても冤罪になりかかった事件を思い出します。

大きな事件でしたので覚えている方も多いでしょうが、2009年に起きた郵便不正事件です。この事件は一つ間違っていたなら冤罪になるところでした。なにしろ検察官が証拠を改竄していたのですから恐ろしい事件です。最初に結果ありきで捜査を進めるのですから公正な捜査が行われるはずがありません。

あと一つ思い出すのは1994年に起きた松本サリン事件です。このときは事件が起きた近くに住んでいた河野義行さんという方が容疑者として取り調べられました。河野さんの著作を読みますと、やはり結論ありきで捜査が行われていたようですが、このようなやり方で真犯人を捕まえられるはずがありません。河野さんの潔白は、翌年にオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたことで証明されましたが、もし地下鉄サリン事件が起きていなかったなら河野さんが犯人にされていた可能性もあります。

冤罪とは違いますが、裁判に関連して思い出すのは、現在は「知の巨人」として活躍している佐藤優氏です。佐藤氏の著書『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』を読みますと、裁判というものが公平でないことを痛切に感じてしまいます。この本で「国策捜査」という言葉を知りましたが、人が人を裁くことの難しさを思わずにはいられません。

「国策捜査」という言葉から想起されるのはホリエモンこと堀江貴文氏や元通産官僚で投資家の村上世彰氏です。どちらも見せしめの意味合いがあったように感じるのは僕だけではないでしょう。

米国では来月中間選挙がありますが、僕が不思議なのはトランプ大統領を批判する報道があれだけあるにも関わらずトランプ大統領が居続けていることです。共和党の中からも批判的な意見が出ている中でトランプ氏が大統領でいるのが不思議でなりません。海を渡って伝えられる報道は真実なのでしょうか。本当に大統領に相応しくない人であるなら中間選挙では民主党が勝利するはずです。

もしかしたなら、来月の米国の中間選挙は民主主義が機能するのかを計るバロメーターになるかもしれません。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 16:10 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月07日

<研究者>

先週は、京都大学の本庶佑教授がノーベル賞を受賞したことで盛り上がりましたが、2012年に受賞していた山中伸弥教授によりますと「遅いくらい」だそうです。僕が見ていた夜のニュース番組に出演して話していたのですが、その話の中で少し驚いたことがありました。

僕の驚きは本庶氏や山中教授だけに当てはまるのではないのですが、あれだけ高度で奥深い研究をする立場の人がゴルフをしていたことです。僕の勝手なイメージでは研究をするような人は日々実験や考察に明け暮れていて趣味などをする時間がないと思っていました。例えば、野球の大谷選手が野球の練習そっちのけでゴルフをしている姿はなんとなく想像ができません。そんな感覚です。

山中教授はマラソンを趣味としていることでも知られていますが、そのような時間があることも不思議に感じていました。あれだけ奥深い研究をしながらマラソンもしてゴルフもして、そのうえに人付き合いもしています。これは有名人に共通していると思いますが、顔が広いので人付き合いをする相手がたくさんいることになります。そうした時間を確保するのも大変なはずです。どんなに偉い人でも与えられている時間は1日24時間です。

本当に頭脳明晰で優秀な人は時間の使い方がうまいという共通点があります。「使い方」というよりは「処理能力」のほうが正確な言い方かもしれません。例えば、本やレポートを読むのに要する時間が凡人なら1時間かかるところをわずか10分で読み終える感覚です。こうした処理能力がすべての面において発揮されますので凡人よりもたくさんいろいろな経験をできることになります。こうした点が凡人と偉人の大きな違いのように思います

こうした偉人の凄いところは処理能力だけではなく時間の割り当てにも優れていることです。単に早く処理すべきことと効率よりも過ごしている時間を大切にすることを分ける能力です。わかりやすく言いますと、本やレポートを読む作業はできるだけ短時間で処理しても友人や知人とお酒を飲む時間などには速さを求めない姿勢です。こうしたメリハリをしっかりとつけられる人が偉人になれるようです。

先のニュース番組で山中教授が興味深い話をしていました。本庶教授が受賞したことでオプジーボというガンに効く薬が一気に注目されました。オプジーボについては以前よりガンの治療薬としてマスコミなどで報じられていましたが、この薬の難点は価格がかなり高額なことです。一般の人では絶対に購入できないほど高価な薬でした。当時、僕などは「病気も所詮はお金持ちに有利なんだよなぁ」と思っていたものです。

それが最初は皮膚ガンで保険適用になり、その後肺ガンでも適用となりさらにいろいろなガンに適用されるようになっていきました。これ自体は一般庶民にとりますと朗報ですが、健康保険組合にとっては死活問題です。ご存知のように健康保険には高額療養制度というのがありますので受診者は最高でも一ヶ月に9万円弱の支払いで済みます。それ以上は負担しなくてよいのです。残りはすべて保険組合が負担してくれます。受診者は助かりますが、保険組合の財政は大変です。

それはともかく、山中教授がニュース番組で話していたのは「僕の親友である平尾誠二さんには薬が効かなかった」ということです。今回、オプジーボが注目されたことで病院に問い合わせが増えているそうですが、命に係わる病気ですので当然です。しかし、この薬は2〜3割の人にしか効果がないそうです。原因はまだ解明されていないのですが、残念ながら平尾さんには効果がありませんでした。山中教授はそのことを話していました。

この話を聞いて僕はこれまで感じていた一つの疑問が解消されました。それは平尾さんの訃報に際して病名が公表されなかったことです。今はネットなどでも書いてありますが、当時は病名は伏せられていました。僕にはそれが不思議でならなかったのです。

今回、山中教授が「薬が効かなかった」という話をされていましたが、平尾さんが病名を公表しなかったのは、ここに理由があるように思います。山中教授は平尾さんとの対談本を出版するほど親しいのですから、病気になってすぐに山中教授にも相談しているはずです。そうなりますと当然オプジーボの投与も行っているはずですので、山中教授にも責任の一端が生じることになります。平尾さんや遺族の方々それを心配して病名を公表しなかったのではないでしょうか。あくまで僕の勝手な想像ですが、このように理解しますとすべてにおいて辻褄が合います。ずっとのどに小さな骨が刺さっていた感じでしたのでスッキリしました。

世の中の進スピードが速いですのでもう忘れている方も多いでしょうが、2014年にノーベル物理学賞を受賞した中村修二氏という方がいます。中村氏は青色発光ダイオードを発明したことで受賞したのですが、この方の本には僕が想像していた研究者の生活が書いてありました。僕がこの方の本を読んだのは17〜18年前ですので僕が研究者に対して持っているイメージはこの本の影響かもしれません。

山中教授や本庶教授は大学に勤めていますが、中村教授は普通のサラリーマンでした。のちにアメリカの大学に転職するのですが、青色発光ダイオードを発明したときは日亜化学工業という企業のサラリーマンでした。中村氏の本を読みますと、日亜化学工業に対する怒りが伝わってきます。中村氏はノーベル賞を受賞したときに「怒りが研究を続けさせた」とまで話していました。この言葉で怒り具合がわかるというものです。

中村氏は青色発光ダイオードの発明の対価について日亜化学工業と裁判で争っていました。ものすごい発明をしたのに「報酬があまりにも低い」という理由です。あまり詳細を書きますとページが足りなくなりますので端折りますが、研究を続けている間は会社に全く貢献していないことになります。発明に成功したので研究が活きたことになりますが、成功しなかったなら資金を捨てたことになります。

中村氏からしますと、できるだけお金を節約するためにというか社内からの反発もあり実験道具も自分で作ったという言い分があります。中村氏の本にも書いてあるのですが、社内からの反発はかなり激しいものがありました。普通なら研究を続けられないほどです。それを継続できたのは創業者が後ろ盾になっていたからです。もし、研究に理解のある創業者でなかったなら青色発光ダイオードの発明はできなかったかもしれません。

ちなみに、中村氏と日亜化学工業の裁判は現在は和解しています。どちらかと言いますと、中村氏が「あきらめた」という印象です。日本の裁判ではそれが限界のようでした。

今回本庶教授が受賞会見で「基礎科学の重要性」を説いていましたが、これは基礎科学が重要視されていないことの裏返しです。本庶教授の指摘は誰が聞いても的を射ていると感じるでしょうが、なぜ重要視されないかという点が抜けているように思います。

端的に言いますと、成果がすぐに出ないからです。そして、成果が出ないことがなぜいけないかと言いますと、それは「研究をしている」のか「サボっている」のかわからないからです。専門家でない人が見抜くのはほとんど不可能です。この問題を解消しない限り基礎科学の研究を続ける環境を作るのは難しいように思います。

僕なんて、妻に呼び掛けても返事をされないとき、普通の精神状態なのか怒っているのかわからないです。僕の妻って、面倒くさいと返事をしないんですよねぇ。

じゃ、また。


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posted by satoaki at 14:56 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月30日

<指導者>

僕は今、庭師のような仕事もしているのですが、ある日集合住宅のベランダ側にある植栽を整えていました。すると、2階のベランダのほうから怒鳴り声が聞こえてきました。それはそれはすごい剣幕で怒鳴っているのですが、よくよく聞いていますと

「なんで、1(いち)と6/6(ろくぶんのろく)がおなじだってわからないの? おかしいでしょ!」

怒鳴り声の主は女性です。僕の推測ではお母さんが低学年の小学生に算数を教えているようでした。僕からしますと不思議でしかないのですが、ずっと怒っているのです。このように怒られながら教えられては、恐怖心でわかるものもわからなくなります。

ときたまお父さんらしき人の声も聞こえてきましたが、お父さんの話し方は言い含めるようにやさしく穏やかな声でした。お父さんがそうであるだけに、お母さんのヒステリックな声が強く印象に残りました。男女差別と言われそうですが、女性はすぐに感情的になる傾向があるように思います。あのお子さんは大丈夫だったでしょうか…。

実は、僕にも同じような経験があります。僕の場合は国語だったのですが、小学生の頃に母親が僕に勉強を教えている光景が今でも思い出せます。母もとにかく怒っていました。僕ができないことがよほど頭にくるようで、頭ごなしに怒鳴っていました。一応断っておきますが、普段は優しいお母ちゃんでした。一人息子の僕でしたのでとてもかわいがってくれていました。そのお母ちゃんが勉強を教えるときだけ怒り狂うのです。

一番印象に残っているのは「新聞」という漢字です。僕が「新聞」という漢字がわからないでいると、「朝刊を持って来なさい!」と命令しました。そして、「ほら、よく見て!」と怒るのです。僕としては、恐くてどこを見てよいのかわからないのですが、そうした僕の反応がお母ちゃんにはまた苛立つようで「このバカ! 書いてあるでしょ!」と怒るのです。しかし、僕はやはり恐怖心でどこを見てよいのかわからないのです。業を煮やしたお母ちゃんは我慢できなくなったようで人差し指で新聞の上のほうに書いてある「〇〇新聞」の文字を指して「ここでしょ! なんでわかんないの!」とのたまうのでした。僕の幼少時の悲しい思い出です。

車の運転をするときだけ人格が変わる人がいます。普段は温厚で優しい人がハンドルを握ると性格が一変するのです。理由はわかりませんが、エンジン音がなにかを変えるようです。本来、このような人は車の運転には不向きです。車は使い方を間違えますと、凶器になりますのでこのような人は間違いなく車を凶器にしてしまいます。ハンドルを握ってはいけない人です。

同じことが、教える立場にいる人にも当てはまります。教えているうちに自分を見失うのです。先ほどのお母さんもそうですし、僕のお母ちゃんもそうです。このような人は教えることに向いていませんので教える立場になってはいけません。

しかし、世の中はすべて理想どおりにいくとは限りません。また「教える」ことに対する理解が社会に浸透していないという現実があります。今年に入りスポーツ界で起きているたくさんのパワハラ問題はまさしく「教える」、言葉を変えるなら「指導する」もしくは「コーチング」の重要性を認識していないことが原因です。

昔から「名選手、名監督にあらず」と言いますが、これはコーチにも当てはまります。名選手が教え方もうまいとは限りません。場合によっては、自分のやり方を無理やり押しつけるという弊害を生むこともあります。名選手になった人が成績を残せたのは当人の肉体や精神的な要素があってこそです。それらの要素が全く異なる他人に当てはまる保証はどこにもありません。それを理解せずに、教えたり指導されてしまっては教えられるほうは溜まったものではありません。

野球界における指導者と選手の対立について、僕はこれまでに野茂英雄投手と鈴木啓二監督の軋轢を紹介したことがあります。しかし、今の若い人の中には知らない人も多いので今回は菊池雄星投手と大久保博元コーチの軋轢について紹介したいとも思います。

事件が起きたのは2010年です。今では菊池投手はライオンズの立派なエースですが、当時はまだ2軍で練習していました。大久保コーチはそのときの2軍のコーチだったのですが、そこで大久保コーチが菊池投手に暴行したことが写真週刊誌に報じられ、大久保コーチは解任されました。

球団の対応を不服とした大久保氏は裁判まで起こすのですが、裁判の最中に「自分に非があること」気づき、裁判を取り下げました。そして、2016年に大久保選手が直接菊池投手に謝罪し、二人は和解をしています。僕は元々大久保選手に好感でしたので事件が報道されたときは残念な気持ちになりましたが、そのあとの展開を知って喜んでいます。

実は、この話にはあと一人重要な人物がいます。それは当時のライオンズの監督だった渡辺久信氏です。渡辺氏は監督を退任後、ライオンズのフロントに入っていますが、大久保氏と菊池氏の和解を取り持ったのは渡辺氏でした。

解説者となっていた大久保氏がライオンズに取材を申し込んだときに、渡辺氏が「菊池に謝ってくれないか?」と打診したそうです。大久保氏は快諾し、お互いが謝罪をして和解を果たすことができました。おそらく渡辺氏は二人の関係をずっと気にしていたのでしょう。僕はそこに渡辺氏の人格の素晴らしさを見ました。

渡辺氏は現役時代にエースとして大活躍もしましたが、取りてて素晴らしい記録を残しているわけではありません。渡辺氏は台湾球界でも活躍しているのすが、俗な言い方をしますと苦労をしています。渡辺氏の素晴らしい人格はその苦労から培われたと僕は思っています。

大久保氏は裁判をしている中で自分を見つめなおすことができ、自分の至らなさに気がついたからよかったですが、未だに監督またはコーチという立場の本当の役割を理解せずに指導者の立場にいる人がいます。指導者は自分の考えややり方を押しつけるのは仕事ではありません。指導者は選手の力を伸ばすのが仕事です。それを勘違いしてしまいますと、本来なら逸材であるはずの選手が力を発揮できないことになります。

コーチについて考えるとき、僕はメジャーで活躍している大谷翔平選手を思い浮かべます。大谷選手には特別なコーチ、つまり師匠のような存在はいないように見えます。練習はすべて自分で考えコントロールしているようです。なぜなら、メジャーへ行っても活躍しているからです。そして、このことは現在メジャーで活躍しているすべての日本人選手に共通していることです。特別なコーチがいるわけではなく、自分で練習のやり方をコントロールしています。コーチに無理やり練習させられているのではなく、自ら考え自ら管理している姿勢が共通しています。

成功している選手はコーチなどの力に頼らず、自分で練習を管理しています。こうした事実を見ていますと、細かいことまで教えようとするコーチは必要ないということになります。指導者になろうとする指導者ほど迷惑な存在はありません。現在、指導者の立場にいる人はそのことを理解することが必要です。

実はこれって、すべての業界に当てはまるんですよ。どの業界にも上から目線で偉そうに振舞っている人っていますよねぇ…。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 14:38 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月23日

<デジタル機器>

僕は数年前から好きな音楽をYouyubeからダウンロードして楽しんいますが、残念なことにYoutubeにアップされていない楽曲もあります。僕の好きな曲ベストファイブの一つにサザンオールスターズの「真夏の果実」があります。この楽曲を本人の声で歌っているものを録音したいとずっと思っていたのですが、実現できないでいました。

桑田さん本人ではなく、ほかの人がカバーした「真夏の果実」は録音しているのですが、僕は桑田さんのあのしわがれた声が大好きですので満足することはできませんでした。1ヶ月に1度くらいの頻度で本人の声でアップされていないかをチェックしていましたが、出会うことがありませんでした。

ところが、先日Youtubeではなかったのですが、本人の声で歌っている「真夏の果実」に出会うことができました。僕は大喜びですぐに録音をすることにしました。僕がネット上の楽曲を録音する方法はオンラインでダウンロードするツールを利用する方法です。このツールは無料ですのでとても便利なのですが、欠点は楽曲によっては制限がかけられていてダウンロードができなことがあることです。残念ながら「真夏の果実」はダウンロードできない状態になっていました。

しかし、本人の声で歌っている「真夏の果実」をネットで見たのも初めてです。簡単にあきらめるわけにはいきません。そこでスマホの録音アプリを使って録音することを考えました。僕は昭和の人間ですが、昭和の人間がテレビから流れてくる好きな歌を録音しようと思ったときはテレビの前にカセットデッキを置いて録音するのが普通でした。もちろん雑音が入らないように家族には絶対に静かにしてもらっていました。

今の若い人からしまうと笑い話にしか聞こえないかもしれませんが、これしか方法はがなかったのです。この方法の最大の欠点はどんなに家族に静かにしてもらっても音質がよくないことです。如何せんテレビの音が出るスピーカーの前にカセットデッキを置くだけですので音質が悪くなるのは仕方のないことでした。

このような経験がありましたのでパソコンのスピーカーの前にスマホを置いて録音するやり方もちょっと無理があるかな、とは思っていました。そして、実際にやってみますと、案の定予想以上に音質が悪い状態の録音がされていました。

そこで次に考えたのはイヤホンジャックからコードを使ってスマホに録音させる方法です。ところが、人間の耳につながるイヤホンコードは持っていましたが、両方がピンになっているコードは持っていませんでした。「困ったな…」と思っていますと、ある考えが浮かびました。

「わざわざスマホで録音するんじゃなくて、パソコンの録音ソフトで録音すればいいんじゃん!」(江戸っ子の口調で読んでいただくとうれしいです)

僕は期待に胸を膨らませ、パソコンに入っているレコーダーを起動しました。そしていよいよサザンの楽曲をスタートさせ、録音開始のボタンをクリックしました。最初は練習のつもりでしたので1分ほどでやめて、録音したファイルを再生することにしました。

僕はじっと耳を澄ませ、イントロの音が出てくるのを待ちました。しかし、待てども待てども一向に音が出てこないのです。悲しいことに録音はなされていなかったようです。

僕は考えました。以前自分の声をマイクを通して録音したことがありますが、そのときは無事に成功しています。それが今回録音できていないということは「音源の設定に問題があるのではないか」と推測しました。そこでググってみますと、やはりミキサーをオンにする必要があることがわかりました。そこにはやり方も書いてありましたので説明どおりに設定し、最初に戻って「真夏の果実」を録音しますと、実にきれいに録音されていました。大成功です。

今回、このやり方を知ったのは大きな意義があります。これまでもダウンロードしたい楽曲があった場合でも制限がかかっておりダウンロードできないことが多々あり、あきらめていました。しかし、今後は楽曲さえ見つけられたならダウンロードの可否にかかわらず録音ができることになります。これで一気に世界が広がった気がしています。


あと一つ音楽を聴く関連で発見がありました。僕はスマホに音楽を入れていますので車内でたまに音楽を聴くことがあります。スマホのスピーカーは音量が小さいですので車内で聴くには物足りない感じがありました。そこで知ったのが100均で販売されているスマホの音量を大きくするグッズです。これが意外に便利で十分使える代物でした。

このようにして音楽を聴いていたのですが、僕のスマホには大きな問題がありました。それは、安物ですのでバッテリーの容量が少ないという弱点です。スマホで音楽を聴いていますと一気にバッテリーが減ってしまうのです。僕はそれが気になって仕方ありませんでした。そこで息子が使わなくなっていたデジタルプレーヤーを利用することを思いつきました。

しかし、デジタルプレーヤーは基本的にイヤホンで聴くものですからスピーカーがありません。そこで100均で売っている小さなスピーカーがありましたので試したところ、音量がとても小さく実用的ではありませんでした。やはりアンプが入っていませんとスピーカーの役割を果たせないようです。そこで、また考えました。

僕はコロッケ店を営んでいたときに店先に音楽を流していました。やはり店先は活気がありませんと暗いイメージになります。明るい元気な音楽は必要です。そのときに乾電池式の小さなスピーカーを買っていたのですが、そのスピーカーを車内に置くことを思いつきました。乾電池式でしたが、十分にスピーカーの役割を果たせる機能がありました。僕は満足していました。

ところが、使い始めて少ししますと今一つしっくりこないものを感じていました。スピーカーの大きさは縦横高さが3〜5センチほどでしたので助手席に前の物入れの中に入れていました。大きくありませんのその場所にすっぽりと入ってはいたのですが、場所をとることが気になりだしました。そこで、僕はまた考えました。

僕は今2代目のスマホを使っているのですが、2代目を購入する気持ちになったのは壊れたからではなく、ストレージの容量が小さかったからです。アプリで満杯になりヨーカドーのアプリの更新ができなくなっていました。そこで容量の大きい機種に変更することにしたのです。

つまり、前に使っていたスマホはまだ使える状態なのです。僕は前のスマホを音楽を聴く専用の機器にすることにしました。こうすることで新たにスピーカーを置く必要もなくなりましたし、機器の扱いに困ることもありません。実は、デジタルプレーヤーはとても小さいので指でタップするのがやりにくいという欠点がありました。車を運転しているときに使うには適していない大きさのように感じていました。それに比べてスマホですと、ごく普通に扱うことができますので気軽に音楽を聴くことができます。

現在は音楽を聴きながらのドライブを楽しんでおります。

以上2点、おじさんのデジタル日記でした。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 15:19 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月16日

<フィルター>

またしてもスポーツ界でパワハラ問題が表面化しました。日本ウエイトリフティング協会会長で女子代表の監督と日大駅伝部の監督です。あまりに連続で報道されますと、驚きも少なくなり感覚が麻痺してしまいそうです。スポーツ界のパワハラ問題は今年4月に女子レスリングの伊調選手に関して報じられたことがはじまりですが、収まりかけた問題を再燃させたのは女子体操界での女子選手の会見です。その事件が今週に入りパワハラ問題から権力闘争問題へと展開していきそうな雲行きです。

これはある程度予想された展開ですが、組織内においては権力闘争が起こるのは当然です。そこで重要なことは公平で平等で自由な組織にする人が勝利を収めるかどうかです。私利私欲の塊の人が権力闘争に勝利してしまいますと、その組織は活力を失い崩壊してしまいます。これは社会にも当てはまります。公平で平等で自由な環境は人間が集まる集団にとって最も重要な要因です。

マスコミが伝える内容もメディアにより異なっていることがありますが、これも問題です。女子体操界を例に挙げますと、あるメディアは女子選手側寄りの伝え方をし、またあるメディアは権力者側寄りの伝え方をしています。これでは一般の人はどのように判断してよいかわからなくなります。

あるコラムニストさんがスポーツ界のパワハラ問題について、「マスコミが逐一報じるのはやめたほうがよい」と話しているのをラジオで聞きました。コラムを読みますと、氏曰く「わたくしどもこのちっぽけな島国に暮らす小市民は、威張っているオッサンを寄ってたかって十字架にかけて晒すタイプの見世物が大好きなのだ」。

僕はこの意見に反対です。コラムニスト氏は女子選手が会見まで開かなければならなかった状況に考えが及んでいません。実は、現在ではこの女子選手の会見について「虐待される側の心理」という側面でとらえる報道もあります。つまり、この女子選手が暴力を使うコーチにマインドコントロールをされているという指摘です。この意見の裏側には、「マインドコントロールされている女子選手の主張は自らの本当の気持ちではない」という考えも見え隠れします。

しかし、そのことについて深く追求していきますと、話が広がりすぎてしまいますので今回はひとまず置いておくことにします。

さて、話を進めますと、女子選手が会見まで開かなければいけなかったのは組織内では解決できなかったからです。もし、コラムニスト氏が主張するようにマスコミが軽く簡単にしか報じなかったなら女子選手へのワハラはまだ続いていたでしょう。力の弱い者が力の強い者に立ち向かうにはマスコミの力を使うしか方法はないのです。コラムニスト氏はそのことに気がついていません。

僕は幾度か「戦争広告代理店」という本をコラムで取り上げていますが、この本は自らの意見を社会に伝えるに当たって、マスコミの力がどれほど大きいか、そして重要か、を教えてくれています。弱者が社会を動かすにはマスコミを利用する意外に方法はないのです。強者は権力やお金の力でマスコミを動かすことができます。しかし、弱者は権力もお金もありませんので、それ以外の方法でマスコミを動かす必要があります。それが会見であり、それをセンセーショナルに伝えるマスコミの力です。

もし、単に事実だけを伝えるだけなら次々に起きてくるる事件に流されてしまい、すぐに忘れ去られてしまいます。忘れ去られることは、伝えなかったことと同じです。ですから、マスコミが「威張っているオッサンを寄ってたかって十字架にかけて晒すタイプの見世物」な状況にするしか術はありません。

さらに言いますと、民主的な社会における権力者は「寄ってたかって十字架にかけて晒すタイプの見世物」にされる覚悟が必要です。それは権力者の社会的責任でもあります。それほど権力というものは大きな力を持っているという自覚が求められます。

今、大手企業ではセクハラやパワハラについて研修などが行われていますが、その背景には昭和時代の感覚の上司がたくさんいるからです。根本的な感覚を変えることが必要だからですが、同じことがスポーツ界でも必要のようです。

スポーツ界はビジネス界よりもパワハラが起きやすい環境です。おそらく過去にはパワハラにより辛い経験をした方もいるでしょう。究極的には、どのような業界であろうとも全員が光を浴びることはできません。社員全員が部長になれるわけではありませんし、取締役、社長になれるわけではありません。また、全員が金メダルを取れるわけではありませんし、代表に選ばれることはあり得ません。

このように組織には階層が生じますが、その際には必ず評価されるというフィルターがかかります。そのフィルターは絶対に公平であり平等である必要があります。これが担保されなければ相応しくない人が権力を持つようになってしまいます。

そして、権力者に相応しいかどうかを評価するものさしとして「寄ってたかって十字架にかけて晒すタイプの見世物にされる覚悟」があります。これまでのスポーツ界は権力者に相応しいかどうかを判断するフィルターが欠けていたように思います。それが今、いろいろな分野でパワハラ問題が噴き出している原因です。

今後もまだ続く可能性がありますが、いっそのことこの機会にすべての分野で噴出したほうがよいように思います。おそらく今のそれぞれの分野で権力を持っている人はほとんどが昭和時代の感覚でいるはずです。それこそマインドコントロールではありませんが、光を浴びることができなかった人も、当時は「それで当然、もしくは仕方ない」と思い込んでいた可能性もあります。

今後は、権力者になる人は公平で平等なフィルターにかけられた人が就くようなシステムを作ることが大切です。しかし、そうしたシステムができたからと言っても必ず理想の社会になるとは限りません。

米国は民主国家で選挙で大統領が決まりますが、今の大統領は平等で公平な思想の持ち主とは思えません。なのに、強烈に支持する人がいます。僕が不思議なのは、超お金持ちで資産家階級に属する人を支持する一般の人たちです。超お金持ちの人は一般の人々から利益を搾取している人です。それなのに、なぜ支持するのか。

やはり、ここにも宣伝広告の影が見えてきます。宣伝広告によって本来とは異なったイメージが発せられています。かのヒットラーもゲッペルスという有能な宣伝相の力が大きくサポートしていました。

 皆さん、宣伝広告には注意を払いましょう。

 じゃ、また。

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posted by satoaki at 15:44 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月09日

<プロの目利き力>

先週は大規模な自然災害が2つも起きました。関西地方を襲った台風21号は強風のすさまじさを見せつけましたし、北海道の地震では頑丈そうに見える大地がいとも簡単に崩れることを教えられました。やはり自然の脅威は人間の想像を超えたものがあります。

このような災害が起こるたびに、海外からは整然と店の前に行列を作っている国民性を評価する声が聞こえてきます。ほかの国では略奪や暴動が起きても不思議ではないそうで、真面目で実直な日本人資質が賞賛されています。

このような映像を見るたびに日本に生まれてよかったと実感しますが、そうしたこととは別に、ニュースの映像を見ていますとスマホのカメラ機能の高さを感じます。台風での災害では大きなトラックが強風で横倒しになる様子やビルの屋根が吹き飛ばされる強烈さはスマホならではの映像です。現場で実際に体験しているからこそ伝えられる臨場感がありました。

スマホが登場する前は、事故現場などの映像はマスコミの人が撮影するしか方法はありませんでした。ですが、実際問題としてマスコミの人が駆け付けたときは最も厳しい状況が終わったあとです。映像で最も強いインパクトを伝えるのは最も激しい状況の映像です。その意味で言いますと、マスコミの人が伝える厳しさのピークを過ぎた映像はインパクトがある映像とはいえません。それに比べますと、厳しい状況の現場で撮影しているスマホの映像には敵いません。速報性と衝撃性の観点で考えますと、スマホの登場はとても大きなものがありました。

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僕はおじさんですのでSNSというのはあまり得意ではありません。というよりもあまり好きではありません。ですので、ツイッターもfacebookもアカウントは持っていますが、今一つ使い切れていない部分があります。特にツイッターに関しては「どうして、いちいちつぶやかなくちゃいけないんだ」という思いがあります。

このようなひねくれた性格ですのでSNSの世界に疎いのですが、数ヶ月前にたまたま僕の知らない世界に触れる機会がありました。そこで知ったのが「はあちゅうさん」とか「かっぴーさん」とか「イケダハヤトさん」といった方々ですが、僕が知らなかっただけでネットの世界では著名人のようでした。本当に世の中には自分の知らないことがまだまだたくさんあるものだと実感した次第です。

時を同じくして知ったことがツイッターの有用性です。僕はツイッターは単なるつぶやきツールと思っていましたが、今の時代はツイッターは広告宣伝またはマーケティングに欠かせないツールとなっているようでした。そうなのです。宣伝に長けている人たちはツイッターを使って自分というブランドを確立または拡散しています。

その流れの延長で知ったのが、今出版業界を席捲している若い編集者でした。箕輪 厚介さんと言う方ですが、出版業界または若いネット利用者の間では有名人だそうです。有名になった理由はヒット作を連発しているからですが、与沢翼『ネオヒルズジャパン』や堀江貴文『多動力』、見城徹『たった一人の熱狂』などがあります。また、箕輪サロンという集まりも有名だそうです。

箕輪さんの言葉で印象に残る言葉が「熱量がある」という表現ですが、売りたいという強い気持ちが本を作る際には一番重要なようです。箕輪さんは以前は双葉社にいましたが、現在は幻冬舎に在籍しています。箕輪さんのインタビューを幾つか読みましたが、箕輪さんを見ていますと、若い頃の見城徹氏に似ている印象を受けました。わざわざ言う必要もないでしょうが、見城氏は幻冬舎の社長さんです。

お二人に共通しているのは売れそうな雰囲気を察知する感性です。そして、おそらく編集者という職業にはこの感性が最も大切なのでしょう。

*****

僕が子供の頃は、ほとんどの小学校に二宮金次郎さんが背中に薪を背負って本を読みながら立っていました。二宮さんは勤勉の象徴的存在ですが、僕は大人になってから二宮さんのほかの面を知ることになりました。なにかの人生指南本だったと思いますが、

「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」

という箴言に出会いました。

この箴言に出会ったのは僕が独立してラーメン店を営んでいたときでそこそこ儲かっていたときです。当時は、グルメ番組が隆盛で実際の現場とテレビの伝える内容があまりに違っていることに憤りを感じていました。飲食店の浮沈がテレビ業界に影響されていることが納得できなかったのです。「売れさえすれば、どんな方法でも構わない」という風潮がまかり通っていたことに我慢がなりませんでした。

その頃の僕は「売上げよりも、売り方が重要だ」と考えるようになっていました。つまり、正々堂々と売ることにこだわりを持っていました。事実を誇張したり消費者を惑わすような宣伝方法で売上げを作るのは間違いだと思っていました。そのときに出会ったのが「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」でした。

どんなにきれいごとを並べて、格好いいことを言っていても赤字経営をしていてはなんの意味もありません。会社員でしたら毎月決まったお給料がもらえますが、自営業者は赤字では生活ができません。僕は十数年後に廃業することになるのですが、この言葉の厳しさを嫌というほど味わいました。

*****

テレビ業界ですとプロデューサー、出版業界ですと編集者になりますが、こういった人たちは世の中に伝えたいことを出力する権限を持っています。インターネットの登場で誰でも情報発信ができるとは言われますが、多くの人の目に触れるという意味ではプロデューサーや編集者の立場の方はやはり圧倒的に強いものがあります。

こうした状況の中で、世の中へ作品を出品する権限を持っているプロデューサーや編集者の方々には社会的責任があるはずです。社会に貢献する本を送り出すという責任です。一般の人が情報を発信することとプロと言われるプロデューサーや編集者が情報を発信することの一番の違いは作品を評価する目利き力です。

もちろん「経済なき道徳は寝言」ですから、赤字になっては意味がありませんが、経済だけを追い求めて作品を選ぶのは間違っています。プロデューサーまたは編集者という仕事は社会に与える影響が大きいですが、だからこそ仕事に対する責任も大きくなるはずです。

一般の方が映したスマホの映像がテレビで放映されるのを見ていて感じたことでした。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 15:29 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月26日

<感動>

残暑お見舞い申し上げます。本当に暑い日が続きます。実は、僕は体温が低いようでほかの人が暑いと感じるときでもあまり暑さを感じない体質です。昨年書きましたが、現在僕は寝るときは妻と部屋を別にしています。理由は、暑さを感じるレベルが違うからです。妻が「暑い」とクーラーをつけますと僕には寒く感じてしまうのです。ですので昨年から夏の期間は寝るときに部屋を別々にすることにしました。いわゆる夏の夜だけ家庭内別居ということになります。

実は昨年は居間のエアコンが故障していました。かなり年季の入ったエアコンでしたので、修理を依頼しようかどうか迷っているうちに夏が過ぎてしまったという状況でした。ですが、さすがに今年は新しいエアコンを購入する予定で、6月ころから考えていたのですが、今年の暑さを考えますと早めに購入しておいて正解でした。

今年はエアコンを購入する気持ちにはなっていましたが、具体的な日にちなどは特に考えていませんでした。それを6月に購入したのは、ある意味偶然です。

僕はたまに妻と一緒に大手家電チェーンに電機マッサージ機を利用するために行きます。よく見る光景だと思いますが、マッサージ機が並んでいて自由に試すことができる「あれ」です。あのマッサージ機は「試す」という名目で自由に利用できるのですが、日曜祭日は販売者がいて落ち着いて椅子に座ることができません。しかし、平日ですと誰もおらず、文字通り自由に利用することができます。

6月の初旬のある日、いつものようにマッサージを終えたあと、なんとなく「エアコンを見に行こうか」という話になりました。そのときは購入するつもなどなく下見をするというくらいの軽い気持ちでした。

売り場に行きますと、まだ夏本番前でしたのでほかにお客さんもおらず、僕たち夫婦だけでした。販売員さんも見当たらなかったので誰に気を遣うこともなく好きなように見て回っていました。すると、僕たちに気づいた販売員さんがさりげなく近づいて来て話しかけてきました。

「どういったエアコンをご希望ですか?」

こういうときお客の立場としてはしつこくつき纏われるのは抵抗があります。ですので「ええ、まぁ…」などとあいまいに答えていました。すると、この販売員さんは「なにかありましたらお声をおかけください」と離れて行きました。

販売員さんは40才くらいの男性でしたが、チェーン店の制服を着ていませんでしたので派遣の方のようでした。僕はこの男性のしつこい接客をしない姿勢に好印象を受けました。僕は商品を購入したり契約をするときは販売員さんとの相性を大切にします。僕はこの男性と相性が合うと感じました。

そこで僕はエアコンの選び方などを質問して、いろいろと話したのですが最初の印象どおりにこの男性が気に入りましたのでそのまま購入することにしました。このあと一気に夏がやってくることになり、エアコン購入は工事が思うようにできず苦労していると報じられていました。その意味で言いますとあのときに購入したのは大正解だったと思っています。

先週は、そのエアコンが効いた部屋でアジア大会を見ていたのですが、スポーツの素晴らしさを実感しています。どうして、スポーツってこんなに人を感動させるのでしょう。もしかしたらスポーツ大好き人間の僕だからかもしれませんが、水泳競技ではついつい大声で応援していました。

実は、アジア大会がはじまるまではさほど注目と言いますか関心も持っていなかったのですが、競技がはじまりますと僕の中で一気に盛り上がっていきました。この一因は日本選手が活躍していることにあるのは間違いありません。もし、競技の結果が芳しくなかったならこれほど興味も持たなかったでしょうし、関心も示さなかったように思います。

重要なことは結果を出すことです。結果が伴わない限り周りから注目されることもないでしょうし、感動を呼ぶこともありません。どこかのCMではありませんが、感動は「お金では買えないもの」です。

感動という言葉で僕が印象に残っている会話があります。記憶がおぼろげなのではっきりとした場面ではないのですが、それは「巨人の星」に出てくる牧場春彦君が誰かと話す場面です。「誰かと」とするのは記憶がおぼろげであるからにほかなりません。

巨人の星の主人公は「星 飛雄馬」ですが、牧場春彦君は星君と同じ高校に通う漫画家志望の青年でした。その牧場君が漫画家を目指していく過程で「感動」について考える場面がありました。牧場君は「感動」を「勝利をした人とか成功した人を見て憧れる気持ち」と考えていました。

ですので漫画で物語を作るときも「無理やりに勝たせたり、成功させる物語」にしていたのですが、「誰か」に「それは違うんじゃないか」と戒められるのです。その「誰か」は牧場君に「感動とは、別に勝利する必要もなければ、成功する必要もない」。感動とは「人の心を動かせることなんだ」と諭すのです。牧場君はその言葉を聞いて「目から鱗が落ちる」感覚を得て、その後漫画家としてステップアップして行くことになります。

巨人の星はスポーツ漫画の金字塔ですが、僕の中ではなぜかこの牧場君のエピソードが強く心に残っています。それにしてもここに出てきた「誰か」って誰なんでしょうねぇ…。自分でも知りたい気持ちになっています。どこかの編集者かな…。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 14:20 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月19日

<62回目の誕生日>

「おめでたい」のか、「悲しい」のかわかりませんが、本日は僕の62回目の誕生日です。あっという間の62年間でした。このコラムを書き始めておそらく14〜15年が過ぎましたが、毎週日曜日に書いています。ですから、年間で50回くらい書いていることになり、少なくとも14年ですのでこれまでに700回書いていることになります。そして、僕の記憶では誕生日とコラムが書く日が重なるのはそうなんどもありません。少し調べてみましたところ、2012年の8月19日が日曜でした。つまり、6年に一度くらいの割合でコラムと誕生日が重なることになるようです。

そこで、せっかくの誕生日とコラムの重なり日ですので、今回は62年を簡単に振り返る日にしようかな、と思います。しかし、「ただ振り返る」だけですと、取り留めもないことになりますのでなにかしらテーマを決めることにしました。

いろいろ考えた結果、僕が物心ついたときとテレビが普及した時期が同じですので、「僕が見てきたテレビ」をテーマに振り返りたいと思います。

僕が初めてテレビを見たのは5才の頃です。ですから、テレビが我が家にやって来るまでは外で遊ぶ以外にやることはなかったことになります。ラジオを聞いていた記憶はありません。当時、僕の家は田んぼが広がっているところの端に建てられていたアパートに住んでいました。やることと言ったら、稲刈りが終わったあとの田んぼで走り回ることくらいです。

ある日、父が『今日テレビを買ってくる」と言って出かけたのですが、持ち帰ってきたのは「ラジオだった」という記憶があります。テレビはまだ高価で買えなかったからです。若い皆さんもテレビやネットで昭和を振り返る番組やサイトなどで見たことがあるかもしれませんが、テレビが一気に一般家庭に普及したのは今の天皇陛下がご結婚をしたときと言われています。そして、東京オリンピックもきっかけになっています。当時の三種の神器は「白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫」で、それから新・三種の神器として「カラーテレビ (Color television)・クーラー (Cooler)・自動車 (Car)」が登場しています。

我が家は貧しかったので普通の家庭よりも数年遅れてブームがやってくるのが常でした。ちなみに、父は当時郵便局に勤めていたのですが、九州の田舎から出てきた学歴もない男性が安定した仕事を考えるとき公務員になるしか術はなかったように思います。

今では考えられませんが、その頃の公務員は薄給の象徴的な職業でした。公務員は解雇されることがありませんので、その代わりお給料を低くするという発想です。僕には10才くらい年長の従妹がおり、彼女は大手化粧品会社の工場に勤務していたのですが、高卒の彼女のほうが30代半ばの公務員男性よりもお給料が高かったそうです。ボーナスも含めますと、従妹の年収は父の倍くらいあったそうです。当時は、それくらい公務員のお給料は低いのが普通だったのです。

話は少し逸れますが、公務員のお給料がその後一気に高くなるのですが、それを実現させたのは田中角栄首相でした。田中氏は公務員の社会的地位を向上させることで官僚をコントロールすることに成功しました。

「逸れ」ついでに話を進めますと、政治家の能力は究極的には「官僚をいかにうまくコントロールするか」にかかっていました。なぜなら、いくら政治家が政策を決めたにしても実行するのは官僚だからです。しかも、実際は政策を決めるのも官僚が行っていたという事実があります。今ではなくなりましたが、かつては各省の事務次官が週に1回会議を開いて政策を議論し、決めていた時代がありました。それほど官僚は力を持っていました。

2009年に民主党が政権を取りましたが「失われた3年」と揶揄されるほど、失敗の烙印を押されてしまいました。その原因は「官僚をコントロールできなかったこと」に尽きると思っています。

「逸れ」が長くなってしまいました。話を戻します。

ある日、父が「今日、テレビを買ってくる」と言って出勤しながらラジオを持って帰ってきたのですが、そのときの落胆した気持ちは今でも覚えています。僕がテレビを見ることができたのは、隣の家にテレビがきたときです。晩御飯を食べ終わったあと、隣の家に行き正座をして見させてもらっていました。

僕が自分の家で初めてテレビを見た日のことは記憶にないのですが、僕の頭に強く刻み込まれているテレビの映像は「鉄人28号」が暗闇の中を「ノシ、ノシ」と歩いている姿です。もちろん白黒でしたが「鉄人28号の影が映し出されてから、音楽がはじまっていた」ように記憶しています。

次に覚えているテレビ番組は「スーパージェッター」です。流星号という空を飛ぶ乗り物を腕時計に向かって命令を出し、操るジェッターに夢中になっていました。ここから先もすべてアニメになりますが、「鉄腕アトム」「エイトマン」「狼少年ケン」「オバケのQ太郎」「ジャングル大帝」「魔法使いサリー」「マッハGoGoGo」、一応年代順に紹介しています。

この頃は小学生でしたが、この後中学生になってから登場するテレビ番組には少なからず自分の人格形成に影響を受けました。「ゲゲゲの鬼太郎」「巨人の星」「サイボーグ009」「サスケ」「妖怪人間ベム」「タイガーマスク」といったところでしょうか。いやぁ、書きながら懐かしんでおります。

夏休みになりますと、午前中にアニメを放送する時間があり、それを毎日見ていました。再放送でしたが、午前中の1〜2時間はテレビアニメに首ったけでした。

中学生になりますと、「ぎんざNOW」しか記憶にありません。夕方5時からのバラエティ番組でしたが、ここで関根勤さんとか小堺一機さんとか竹中直人さんなどを知ることになります。

この番組で僕が一番覚えている場面は「とんぼちゃん」というフォークデュオが出演したときです。「とんぼちゃん」は若い女性に人気のあるデュオで、歌い始める前のMCのときに自分たちのコンサートの告知をしました。そのときにたくさんの人にほしいという意味で「男性も女性も若い人もお年寄りも」と言ったあとに「足のない人も…」と続けてしまったのです。

このときは場内から軽い笑い声が起きただけだったのですが、歌い終わったあとに司会のせんだみつおさんから「不適切な言葉がありました」とお詫びの言葉がありました。ですが、そのとき二人は「そういうつもりで言ったのではないので…」といい訳めいた発言をしました。するとせんださんは真面目な口調で「いえ、しっかりと謝罪するべきですよ」と二人に注意をしたのです。

当時、せんださんはお笑いタレントとして活躍しており、今で言いますと出川哲郎さんのような立ち位置にいました。つまり、おちゃらけて笑いを取るのが本来の役割ということになります。そのせんださんが真面目な顔で二人に注意をしたのがとても好感で新鮮な気持ちになった記憶があります。

その場面は、僕が初めてテレビとかタレントについて考えるようになったきっかけになりました。このあと高校時代はクラブ活動に土日も含めて明け暮れていましたのでテレビの記憶はありません。夏休みもほとんどクラブ活動をしていたように思います。

こうして僕の中学高校時代までの人生が過ぎて行ったのです。あれから47年、あっという間の人生ですね。今週は誕生日特別コラムでした。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 14:46 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月12日

<一芸バカ>

今年も終戦の日がやってきました。戦争が終わって73年です。戦争体験を持つ人がどんどんといなくなることは戦争の悲惨さを実感できる人が少なくなることです。僕は経験主義者ですので、どんなことに対しても経験していない人が知識や想像だけで「わかったつもり」になることに不安を覚えます。

戦争の悲惨さをいくら訴えようが、実感として伝えられないのであればその「悲惨さ」は絵空事でしかありません。ですから、戦争が起こらないような社会にするには「悲惨さ」を実感してもらう方法を考えることが大切です。

*****

6月のサッカーワールドカップはフランスの優勝で終わりましたが、予選で敗退したドイツでは代表選手が政治的な問題で引退を発表する出来事がありました。マスコミでも報じられましたのでご存知の方も多いでしょう。ある有名な代表選手が自らの行動に対する批判に納得ができず代表の引退を発表しました。

簡単に経緯を説明しますと、トルコ系移民であるその選手がトルコの大統領と面会することになり、その際にその大統領に敬意を表す振る舞いをしました。その対応が物議を醸すことになったのです。なぜならその大統領は独裁的で国際的に批判されている大統領だったからです。

この騒動が起きた原因の一つは間違いなく大統領が選手たち(2人)との会談を広告として政治利用したことです。これが最も大きな要因です。有名で人気があったとはいえ、一サッカー選手が自分のルーツである祖国の最高権力者と面会することは礼儀的な面で考えますとよくある普通のことです。おそらくその選手たちは深い意味も悪気もなかったはずです。ですから、自然な気持ちで面会をし、そして自然な流れでユニホームにサインをして写真に納まったと想像します。

考えようによっては、大統領にはめられたと取れなくもありませんが、脇の甘さは指摘されても仕方ないように思います。繰り返しになりますが、その大統領は独裁的で国際的に批判されている指導者だったからです。

日本プロ野球の王貞治選手が世界新記録のホームランを打ったのは僕が大学生のときです。球場が沸き上がり盛り上がっているテレビでの映像を見て、僕はなぜか「王選手がホームランを打ってみんなが盛り上がっているのも、世界が平和だからだよなぁ」と思ったことを覚えています。

そうなのです。みんなが楽しい思い出を作り笑顔になれるのは社会が平和だからです。平和は大切です。

僕が小学校の6年生のとき、担任の森山先生は「日本は戦争に負けたあと、アメリカに占領されてよかったんだよ。もし、ソ連に占領されていたら今のような自由な社会にはなってなかったな」と話していました。なぜか、このときの森山先生の言葉が50年以上過ぎた今でも覚えています。

「学者バカ」という言葉があります。辞書によりますと「専門的な知識はあるものの、一般常識に欠けている人のこと」ですが、「一般常識」という言葉は「バランス感覚」と置き換えることもできます。

プロになるほどの技術を持ったサッカー選手は知名度は高いですし、自ずと影響力も大きくなります。これはサッカー選手に限ったことではなく、あらゆるスポーツ選手に当てはまります。一流のスポーツ選手はそのことを常に頭の隅も置いておく必要があります。

先のドイツの代表選手も自分の立場を考えるなら安易に政治家と交流するのは控えるべきでした。例え、悪意はなくとも結果的に大きな影響力が生じるなら控えるべきです。それを考えることが「バランス感覚」です。

*****

誰しも「戦争反対!」とは言いますが、「他国から攻められたときは戦うしかない」とも言います。「戦う」ことは紛れもない「戦争」です。

他国に侵略されて占領されたら「悲惨な」社会になる、だから「戦争しなければいけない」という結論になります。ですが、戦争状態になった社会はすでに「悲惨な」社会です。なぜなら、相手と戦うために軍隊が主導権を握る社会になるからです。

軍隊が主導する社会を最近のわかりやすい例えで言うなら「日大アメフト部」です。上からの命令は絶対に従わなくてはならず、できないときは自分という存在さえ危ぶまれる社会です。一般的に強豪と言われる学校の厳しい運動部はほとんどが当てはまりそうです。女子水球の日本代表のパワハラとか日大応援部のパワハラとか、次々にパワハラが明るみになってきていますが、基本的に厳しい運動部のほとんどはパワハラが前提の構造になっているように思います。

最近、ボンボン二世というポジションでバラエティ番組で活躍している著名人に長嶋一茂さんがいます。言わずと知れた長嶋茂雄氏のご長男ですが、一茂さんは「三流」という本を出しています。著者はほかの方で一茂氏および周りの方々に取材をして一茂さんという人間を浮き彫りにしている本ですが、この本には一茂さんの大学時代のパワハラが書いてあります。

もちろん、当時はパワハラという言葉などありませんが、一茂さんが先輩として後輩に行っていた行為は今で言うと明らかにパワハラでした。しかし、当時はそうした先輩の振る舞いが当たり前の時代でした。理不尽な先輩の言動に振り回され、苦しんでいる後輩たち。こうした構図がスポーツ界の姿だったのです。

戦争という状態では、社会はこのような理不尽な世の中になります。上の者に従うしか術はなく、それができないときは社会から存在が許されない立場に追いやられるのです。

他国から攻められたとき、「戦うしか方法はない」と考える皆さんはこのような社会になることを想像してください。理不尽な世の中は占領された「悲惨な」社会と大して変わらない環境です。そのことも考えたうえでどのように対応するのがよいのかを考えてほしいと思います。

いつまでも戦争が起きませんように…。

じゃ、また。


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posted by satoaki at 14:40 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月05日

<職場のしわ寄せ>

東京医科大学が女子の受験生に対して一律10%の減点をしていた、という報道がありました。まだ真偽は定かではないようですが、そのほかの報道から鑑みますと満更ウソでもなさそうです。この不公平に対して各方面から怒りの声が出ていますが、普通の感覚からしますと至極当然の反応です。

かつて受験戦争という言葉が出始めた頃、マスコミ世論は「勉強だけで人間を計る受験制度は間違っている」という意見を正論のようにもてはやしていました。そのとき当時の中曽根首相が「受験戦争ほど公平で平等なものはない」と正反対の意見を述べていたのが印象に残っています。

中曽根首相の真意は「社会に出ると人間関係やいろいろなしがらみなどにより、実力以外の要素で人物評価が決まることがある。それに対し受験は自分が勉強するだけで評価されるのだからこれほど公平で平等なことはない!」というものでした。確かに、大人になり会社や組織で働いていますと、上司との性格の相性とか派閥だとか学閥などといった実力以外の要素で評価が決まる場面があります。もしかしたらその要因のほうが大きいかもしれません。それに比べますと、受験は自分が努力した結果だけで評価されるのです。それを聞いた当時、僕はやけに感心した覚えがあります。

社会が適切な評価がなされないで動いていくならその社会は必ず崩壊するでしょう。努力をした人間が評価されるのが理想の社会です。今、問題になっている日本ボクシング連盟などはその際たる例かもしれません。勝負の判定が実力ではなく社会的地位の高い人が恣意的に決めるのであれば、いったい誰が苦しく辛い練習をするでしょう。人が努力をするのは公正な審判が行われることが大前提になっています。わざわざ言うまでもありませんが、八百長は社会公正に反しています。

東京医科大学の女子受験生の一律10%減点が事実であったなら受験そのものが八百長ということになります。そのような受験のやり方がまかり通っていいわけがありません。

ですが、この報道で僕が気になったのが八百長をすることになった理由です。「女性は医師になったあとに、出産や育児で医者としての仕事から離れる確率が高いから」という理由です。これに対して「女性が働きやすい環境を作ることが必要」で「そういう努力をしているのか?」という反論が出ています。

もちろんこの反論は正論です。

いろいろなところで報じられていますが、現在の医療現場は働く医療関係者の立場からしますとブラック企業と変わらないそうです。医師もそうですし、看護師も同様です。では、なぜブラック企業化するかと言いますと人手が足りないからです。

僕はラーメン店を営んでいましたが、売上げが好調のときも含めて一番困ったのはパートさんアルバイトさんの確保でした。客席が10人くらいの規模のお店でしたら夫婦二人でお客様を捌くことはできますが、僕のお店は倍以上の客席がありました。ですから、最低でもあと一人の従業員が必要でした。ですから、突然休まれてしまいますとピークタイムはひっちゃかめっちゃかの状態で対応しきれませんでした。こうした状態が数日続いたならお店の評判はガタ落ちになり閉店に追い込まれても仕方なかったでしょう。それほど人員確保は大切です。

小さなラーメン店でさえ人員確保は重要な問題なのですから、人の命を扱う医療現場では尚更です。それこそ死活問題です。このような背景がある中で医師を育てる大学が入学の時点で性別で差をつけるのも理解できないでもありません。

僕が「理解できないでもありません」と思うのは、医師を養成する大学は「入学者がそのまま将来の働き手になる」という記事を以前読んでいたからです。女性は出産や育児で職場を離れる確率が高いのですから、そのリスクをできるだけ低くしようと考えるのは経営の面で考えますと当然です。

あるコラムニストの記事を読んでいましたら、最近の若い人が「経営者目線でものごとを見る、考えることの裏に隠れていること」を指摘していました。そこには「意識高い系の人によく見られる傲慢さ」が感じられるからです。確かに「傲慢さ」は人間性という観点ではいただけませんが、「経営者目線で仕事に取り組む」のは正しい向き合い方だと僕は思っています。

もし、ラーメン店で働いているパートさんやアルバイトさんがお店側の状況などお構いなしに自分の都合だけを優先させて働いていてはお店はやっていけません。病院も同様です。現在、どのような職場でも起きていると想像しますが、育児や子育て中の女性と独身またはお子さんがいない女性との関係に軋轢が生じているようです。いくら理想論を言おうが、現実問題として子育てをしていない女性たちに“しわ”寄せがいくのは事実です。そしてそれが職場に溝を作っています。

会社が倒産しないためには、結局だれかが“しわ”を受け入れる必要があります。それが許容範囲であればなんとか我慢できますが、限度を越えますとその組織は崩壊します。

現在、コンビニは生活に欠かせないインフラと言われるほどの存在になっていますが、コンビニが成り立っている一番の理由はフランチャイズ方式だからです。もし直営方式であったならとうの昔になくなっていたでしょう。なぜなら人員確保がままならないからです。フランチャイズ方式ですと、“しわ”は加盟店主が引き受けることになっていますので心配はいりません。

コンビニの“しわ”の最大の要因は24時間営業ですが、かつてローソンで社長に就任した新浪氏が24時間を見直そうとしたことがあります。しかし、実現できませんでした。そして今年ファミリーマートの新しい社長に就任した澤田氏も同じような発言をしました。しかし、その後進展はしていないようです。これがなにを意味するかと言いますと、誰かが“しわ”寄せを受ける状況を改善する方法が簡単に見つからないことです。

今回の医科大学における女子受験生に対する一律10%減点という八百長が起こる核心には女性が働きにくい職場になっている医師の世界があります。これを改善するのは先のコンビニと同様に簡単ではありません。コンビニの従業員は資格がなくてもできますが、医師は難関の資格を持っている必要があります。職場の改善の難しさはコンビニの比ではありません。

しかし、医師の世界のブラック化を解消し、女性医師が活躍できるようにする必要があります。そのためには旧態依然とした発想しかできない昔ながらの経営者ではなく斬新な発想を持った若い経営者が病院または医科大学の経営に携わる必要があります。

吉田拓郎さんは歌っています。

「古い船には新しい水夫が乗り込んで行くだろう」

じゃ、また。

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posted by satoaki at 14:59 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月29日

<柔らかい発想>

僕はおじさんですので大分前に漫画を読まなくなりましたが、大人になってからも読んでいた漫画で最も印象に残っているのは「ドラゴンボール」です。ちょうどラーメン屋を営んでいたのですが、お店用に漫画を購入していた関係で「ドラゴンボール」を読むようになったと記憶しています。

当時は「ドラゴンボール」を読みたいがばかりにジャンプの発売日を楽しみにしていました。こうした気持ちは僕だけはなく当時の少年たちのほとんどが同じ気持ちだったように思います。その証拠に本来の発売日の前日に販売をしていたお店の情報が行きかっていました。すぐに売り切れてしまうので競って買いに走っていました。

僕の場合は毎週隣のコンビニで購入していましたので店主の方がジャンプが届いた日(本来の販売日の前日)にわざわざ教えにきてくれていました。ですから、僕はほかの人よりも1日はやく読んでいました。(笑)

ドラゴンボールを読んでいて、僕が「いいな」と思っていたのは悟空が暮らしていた地球ではいろいろな人間や動物や神様が一緒に生活していることでした。そこには差別などもなく平和で穏やかな社会があるように見えました。

しかし、現実の地球ではいつまで経っても争いが絶えません。その原因を考えますと、そこには人間の業があるように思います。「業」とは「自分だけが得をしたい」とか「有名になりたい」「賞賛されたい」といった欲です。この欲が世の中のすべての悪の根源です。

今から40年前学生だった僕は、世の中が公平で平等になるには共産主義とか社会主義も悪くはないのではないか、と思った時期がありました。しかし、その後共産主義は消滅してしまうのですが、その結果を見て学者でも評論家でも知識人でもない平凡なおじさんがたどり着いたことは「人間に業がある限り共産主義は成り立たない」という結論でした。

資本主義は人間の業を利用して経済を発展させようとするシステムのように平凡なおじさんには思えます。僕はコラムを書き始めて15年以上経ちますが、コラムを書き始めた頃僕は幾度か「修正資本主義」という言葉を書いていたように思います。僕がこの言葉を初めて目にしたのは経団連の会長を務めていた奥田 碩氏がマスコミのインタビューに答えていたときですが、「なるほど」と合点がいった言葉でした。

「修正資本主義」をざっくりと言ってしまいますと、「競争によって生じた格差を国策によって修正しよう」という考え方です。あれから20年近く経ちますが、残念ながら今の世の中は激しい格差社会になっています。競争に勝った人がその成果を手放したくないと思うのは当然ですので勝者が格差社会を支持することは理解できます。しかし、まだ勝者になっていない人が格差社会を受け入れる考えになっているのは不思議に思えます。

現在、労働組合の組織率はわずか20%前後です。僕には、この数字が若い人たちが格差社会を受け入れる心情になっていることを示しているように思います。労働者がみんなで経営側から果実を獲得しようと活動するのが労働組合です。こうした活動に積極的にならないのは「自分は勝者の側になる」という意識が働いているからです。と、想像します。

人間は労働に対する見返りがなければ働きません。「見返り」には金銭もありますし「賞賛される」とか「有名になる」といった精神的なものも含まれます。そういった見返りが経済を活発化させるうえで必要です。共産主義が崩壊したのは見返りがなかったからです。仕事を適当にやろうが一生懸命に働こうが見返りが一緒では誰も一生懸命に働こうとはしません。

しかし、現在日本ではボランティア活動が活発化しています。災害が起きますと若い人を中心に多くの人が支援に動いています。ボランティアですから見返りがないにもかかわらずです。ボランティアで得られるものは充実感でしょうか…。

今最も注目を集めている経営者と言いますと、やはりzozotownの創業社長・前澤友作氏でしょう。タレントとの熱愛報道も注目されていますが、僕が興味を持ったのは「競争はいらない」という経営哲学です。競争は資本主義の基本原理ですから競争のない社会は共産主義と一緒です。一生懸命働こうが普通に働こうが見返りが一緒では働く意欲が沸かなくなります。

ところが、zozotownでは社員のお給料が同じなのだそうです。「競争はいらない」という経営哲学の元で働くのですから当然と言えば当然ですが、疑問に思える部分もあります。

zozotownを運営しているのはスタートトゥデイという会社ですが、前澤氏は元々はバンドを組んでいたそうでレコードを輸入して販売したのがはじまりだそうです。つまり最初はバンドの仲間と会社を創業したことになりますが、こういうケースでよくあるのが仲間内の主導権争いです。わかりやすく言いますと、「誰が社長になるか」で揉めるのはありがちなトラブルです。

実は、創業時に仲間ではじめながらも業績が上がるに伴い仲間内で諍いが起きるのはよく見かける光景です。前澤氏はzozotownの成功によりマスコミに登場することが多いですが、創業仲間の動向について報じているメディアがありません。反対に言いますと、創業メンバーとの軋轢は影の部分と推察することもできます。

「競争はいらない」という経営哲学は理念としては理想的ですが、現実的ではありません。前澤氏は競争しない市場に展開すると話していますが、いくら自分が競争しない市場で展開していても競争相手が参入してくることもあります。競争相手が出てきたからといってそのたびにその市場から撤退していては企業として成長・存続するのは不可能です。上辺だけで伝えられることを疑いもなしに受け入れるのは危険です。真実を見抜く目を養うことが大切です。

*****

オウム真理教事件の犯人の死刑が執行されました。これを機にオウム真理教事件について解説する記事を幾つか読みましたが、学歴からしますと騙されそうにない人たちが簡単に麻原教祖にからめとられています。こうした犯罪が今後起きないようにするためには常に思考を柔軟にして、自らを俯瞰する姿勢を持つことが大切なように思います。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 15:54 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月22日

<師匠と指導者>

またしてもスポーツ界でパワハラが報道されました。今回は水球女子代表での出来事ですが、代表監督が選手たちにパワハラをしたという内容です。詳細はまだはっきりしませんが、監督と選手のコミュニケーションがスムーズに行われていなかったことは確かです。

ほんの少し前に日大アメフト部でパワハラ騒動が大きく報道されました。また、女子レスリング界でも同様の問題が起きていました。どちらもパワハラの当事者は指導者という立場から離れることになりましたが、社会からバッシングされたことも影響しています。

このような事件がありながら今回また同じような問題を起こしている指導者がいることが不思議でなりません。スポーツ界の指導者は社会で起きていることに全く関心がないのでしょうか。心の底から真剣に選手を育てることを考えているならこのような問題が起きたことに無関心でいられるはずがありません。もし、ニュースなどを読まないという人であるなら、スポーツの指導者というよりも社会人として問題があることになります。どちらにしても、そのような人は指導者として失格です。

ここにきて少しずつ指導者の選手に対する接し方について議論が深まっている印象があります。かつての指導者は選手を自分の思いどおりにコントロールするやり方が正しい指導法と考えていたように思います。厳しく接してそれに耐えられた者だけが成長するという神話です。または指導者の指示に従順な選手だけが認められるという事実がありました。

指導者と選手におけるトラブルと聞いて僕が真っ先に思い浮かぶのは野茂英雄選手です。野茂選手については幾度か書いたことがありますが、現在大リーグで多くの日本人選手が活躍していますが、その先鞭をつけたのは野茂選手です。その野茂選手が大リーグに渡るきっかけになったのは監督との確執でした。

当時の監督は投手としての輝かしい実績があった鈴木啓二氏でしたが、鈴木氏の強引な指導法に納得できなかった野茂選手は日本では干される感じになりメジャーリーグに渡った経緯があります。鈴木氏は自分の練習方法を押しつけることでしか選手を育てる方法が考えられなかったのです。イチロー選手も似たような経験があり、もし仰木監督という選手の意向を尊重する指導者に出会っていなかったならイチロー選手は世に出なかった可能性もあります。それほど指導者の育て方は選手の人生に影響を与えます。

その意味で言いますと、現在メジャーリーグでも賞賛されている大谷選手は栗山監督と出会って大正解でした。もし自分のやり方を押しつける指導法しか考えられない監督であったなら大谷選手は途中で潰されていたかもしれません。それが大げさとしても少なくとも現在ほど成長、活躍することはなかったでしょう。なにしろ二刀流に対する賛否は二分していたのですから。

しかし考えようによっては、大谷選手が栗山監督を選んだとも言えます。メジャー行きを決めていた大谷選手が栗山監督の説得を受け入れたのですから、栗山監督の指導者としての資質を大谷選手が見抜いたことになるからです。

指導者が選手に無理やり練習方法を押しつけるやり方は問題があります。ですが、中にはそうしたやり方で成功した例もあります。長嶋監督と松井秀喜選手の師弟関係です。長嶋監督が松井選手に厳しく激しい練習を課したのは有名な話です。この師匠と弟子は一緒に国民栄誉賞まで受賞していますので理想的な師弟関係と言えそうです。そして、日本人にはこのような厳格な師弟関係を好む傾向があるように思います。

「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」ということわざがありますが、これは本当に深い愛情を持つ相手にわざと試練を与えて成長させることを意味しています。ドラマの世界にありそうで心に響くものがありますが、僕にはこうした思想を持っていることがパワハラの背景になっているように思えます。

間違いなく、谷底から這い上がってこられない獅子の子もいるはずです。獅子の世界ではそうした育て方が理想なのかもしれませんが、僕たちが生きているのは人間の世界です。少し前に親から虐待を受けた小さな子供が死亡する事件がありましたが、自分のやり方に固執する子育てしかできない親元に生まれた子供はあまりに不幸です。

スポーツの世界でも同様です。指導する師匠が常に正しい指導法を行っているとは限りません。指導者は常にそのことに敏感でいる必要があります。指導者に不向きな師匠は自分の考えを押しつけるやり方しか認めようとしないものです。選手と指導者では求められる資質が違います。「名選手名監督に非ず」も昔から言われることわざです。

先ほど、長嶋氏と松井氏の関係を理想的な師弟関係と書きました。しかし、松井氏が同じように思っているかは疑問です。なぜなら、松井氏は引退後にメジャーの2軍や日本のプロ野球でコーチをしていますが、長嶋氏のような指導法を行っていないからです。僕の想像では、松井氏は長嶋監督の指導法を受け入れてはいましたが、心の中では疑問を感じていたのではないでしょうか。コーチをしている松井氏の指導法を見ていますとそのような想像をしてしまいます。

指導者の目的は選手の能力を高めることです。正確に言うなら「高めるサポートをすること」です。あくまで指導者はサポートの立場であることを自覚する必要があります。このときに注意が必要なのは「指導者」は「師匠」ではないことです。そして、「師匠」は昭和で終わっていることです。

僕は高校時代に厳しい練習の運動部に所属していましたが、当時は足腰を鍛えるのにうさぎ跳びの練習をさせられていました。広い校庭をうさぎ跳びを何周もさせられていました。そうした練習が普通だったのです。しかし、今はうさぎ跳びの練習は推奨されていません。膝を壊すだけと言われているからですが、時代とともに練習方法は変わっていきます。

指導者と選手の関係も同様です。かつて師匠と弟子と言われていた関係は今の時代は通用しなくなっています。指導者は選手をコントロールして成長させようなどという発想は捨てるべきです。そして、この発想はあらゆる業界に当てはまります。

先日、「ほぼ日新聞」で有名な糸井重里さんの記事を読む機会がありました。糸井さんと言いますと、穏やかでどんなことでも「いいよ。大丈夫」と相手を自由に泳がせてくれるイメージがあります。ましてや一緒に働いている人に「ダメ出し」など絶対にしないと思っていました。

しかし、弟子と思った相手にはとても厳しい接し方をすると話していました。それこそ「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」の考え方で接していたそうです。これには驚かされました。仕事においてはこれが当然だと思っていたようです。おそらく糸井さんの周りでは谷から這い上がれずに浮かばれないまま人生を送っている人がそれなりにいるのではないでしょうか。

会社などにおいても厳しい指導をする上司や先輩がいますが、その指導が適切かどうかはわかりません。実は、正解などないのです。要は、自分に合っているかどうかです。そして、今指導する立場の皆さん。間違っても師匠になろうなどと考えてはいけません。立場が変わればあなたはただの一人間に過ぎないのですから。

安倍ちゃんもそう思ってくれないかぁ。

じゃ、また。


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posted by satoaki at 15:49 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月15日

<オロナイン>

40代の頃に損害保険の保険代理店を営んでいたのですが、そのときに最も多く販売していたのが所得補償という保険です。これは病気やケガで働けなくなったときに保険金が支払われる保険ですが、保険料の割に補償額が大きく良心的な保険だったように思います。

この保険の対象者は給与所得者だったのですが、販売するに当たって一定の制約がありました。それは通常のお給料の「4割までしか保険金を設定できない」という制約です。理由は健康保険で通常のお給料の6割が保障されているからです。会社勤めをしている人でも知らない人が意外に多いのですが、会社員の人は病気をして会社を休んでも健康保険からお給料の6割を疾病手当金として受け取ることができます。

現在、生命保険会社はテレビなどで収入保険のCMを集中的に流していますが、販売するときに疾病手当金の説明をしているのか気になるところです。なぜ、説明する必要があるかと言いますと、無駄な保険料を支払うことになるからです。適切な保険に加入するには適切な情報と説明を受けることが必要です。

*****

年齢のせいか最近は大のほうのトイレにいきましても気持ちよく終えることができなくなってきました。大の物質つまり大物をきれいに切ることができなくなってきたのです。僕のイメージでは肛門が大物をスパッと切ることができない感じです。肛門を包丁とかナイフに例えますと「キレ」がなくなってきた感じです。

昔は、と言いますか若い頃は肛門にキレがありましたので大物をきれいにスパッと切ることができていました。ですから、トイレットペーパーなど使わなくても肛門を汚すことなく大のトイレを済ますことも可能でした。それが、最近はキレがなくなりましたのでトイレットペーパーは必ず使うことになります。

しかも最近はその症状がさらに進んでしまいましてトイレットペーパーで幾度も拭かないときれいにならないのです。僕はそれが気になって気になって仕方ありませんでした。以前も書いたような記憶がありますが、僕はシャワートイレがないと大のほうのトイレを終わらすことができません。そのシャワートイレを使っても幾度もトイレットペーパーで拭かなければきれいにならなくなっていました。僕的にはこの状態はかなり重症です。

キレがなくなった理由をいろいろと考えましたところ、あることに気がつきました。それは痔です。痔の中で有名なものは「イボ痔」だと思いますが、僕はそのイボ痔です。先日、鏡を使って視認しました。イボ痔のせいでキレがなくなったのです。

イボ痔を鏡を使って視認に至った経緯を説明いたしますと、とっかかりは「幾度も拭く必要」の理由に「毛」があるように推察したことにあります。つまり肛門の周りには「肛門毛」がたくさん生えているのですが、その毛に大の物がつくことによって「幾度も拭く必要」が出てくると考えたのです。

そう思ったきっかけはJリーグで活躍しているベテランの大久保嘉人選手です。以前大久保選手がテレビで海外に移籍した頃のお話をしていました。その中で「海外の選手は下の毛を剃っている人のほうが多い」と話していました。大久保選手は海外で「なぜ意味もない毛を生やしたままにしているのか」と逆に質問されたそうです。

この話を聞いていましたので僕も考えました。そして「肛門毛は生やしている意味がない」と結論を出したのです。考えてみますと、肛門毛は大の物がつくというデメリット以外に存在する意味がありません。そうであるなら「剃ってしまおう」と決断したのです。しかし、元来小心者の僕ですので「剃る」ことに対して不安がありました。手を滑らせて肛門の周りの皮膚を切ってしまう可能性があるからです。そこで「剃る」のではなくハサミで「切る」ことにしました。これなら安全です。

このように決めてから数日後、一人のときに決行することにしました。もし、あの妻に切る姿を見られてしまったならなにを言われるかわかりません。僕は誰もいないときを見計らって決行しました。

新聞紙を敷きその上で裸の下半身でかがみこみ鏡をかざしますと肛門付近が映りました。案の定そこには肛門毛が茂っていました。手で触りますと、結構な量を感じることができます。僕は早速鏡を見ながら毛の茂っているあたりにハサミをいれました。ジョキジョキと小気味よい音がしました。しかし、鏡を見ながら切るのは思ったよりも手間取りました。理由は、鏡に映っている画面が実際とは左右反対だからです。

難渋をしながらもなんとか長く目立っている毛を切り終えたのですが、そのときに発見したのがイボ痔だったのです。それも結構な大きさでしたのでショックを受けました。触りますとプニュプニュしており感触は悪くはありませんでしたが、所詮は痔ですので喜ぶわけにもいきません。

それまでもトイレットペーパーで拭くときに異物がある感覚はありました。ですから、漠然と「痔」とは思っていましたが、現実感がなかったのです。ですが、イボ痔を直接見たことで「トイレットペーパーで幾度も拭かなければならない理由」がイボ痔にあるようにも思えてきました。僕は「イボ痔」を治そうと決意しました。

さて、40才以上の年齢の方ですと覚えている方もいるかもしれませんが、以前オロナインのCMは松山容子さんという美しい女優さんが出演していました。その松山さんがCMの最後にこう言うのです。

「痔にもどうぞ」。

以来、僕は肛門が切れて出血したときなどはオロナインを塗っていました。僕の経験ではオロナインを塗った翌日には出血は治っていたように思います。

僕は「イボ痔」を治そうと決意したとき、もちろんオロナインを塗るつもりでいました。ところが、ところがです、、、。深い意味もなくなにげなくネットで「オロナイン 痔」と検索しましたところ、「現在はオロナインの効能として『痔』は書かれていない」と説明されていました。驚きです。オロナインが痔に効き目があるという証拠がないために効能に記載することができなくなったようでした。

現在僕は痔専用の薬を塗っているのですが、どんなことでも時代とともに変化することを実感しています。最後にオロナインさんの名誉のために書きますと、オロナインは痔には効き目がありませんが、切り傷などにはやはり重宝しています。一家に一つオロナインです。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 14:06 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月08日

<心の隙>

やっぱり今週のコラムはワールドカップの話題にするのが妥当なところでしょう。深夜にもかかわらず視聴率が30%を超えたのですからどれほどの人が期待していたかがわかります。そう言いながら僕は寝ていたのですが…。

ですが、少しだけ目が覚めました。妻が居間でベルギー戦を見ていたからですが、妻の歓声と居間の電気の明るさに睡眠が邪魔されたのです。おぼろげな意識で障子を開けて妻に「どうなってる?」と聞いたところ、「2対0で勝っている」と妻は喜びの声で返答しました。僕は驚きとうれしさを感じながら、また寝入ってしまいました。

翌日、目が覚めて妻に結果を確かめますと残念そうな声で「3対2で負けちゃった」と答えました。僕は寝ぼけながらも「もしかしたら勝てるかも…」と思いながら睡眠に落ちたのですが、僕の期待もむなしく惜敗していました。しかし、下馬評では圧倒的にベルリーが有利でしたので誰もが認める善戦です。もし勝利をしていたなら歴史的な快挙になるところでした。誠に残念です。

朝の段階では「アディショナルタイムに負けた」としかわかっていなかったのですが、夜になりいろいろなニュース番組を見ますと、勝っていてもおかしくない試合内容だったことがわかりました。それを知りますと、本当に惜しい負け方だったと思わざるを得ません。リアルタイムで見ていた人たちの悔しさは相当なものだったろうと想像します。

後半に入り日本が2点を先取しながらも追いつかれ、そしてアディショナルタイムの最後の最後に決勝点を奪われています。2点を先取した段階で日本の勝利を想像した人は多かったではないでしょうか。結果を知りながら試合を振り返った僕でさえ「勝ちそうな気分」になったのですからライブで見ていた人の2点を先取したときの興奮ぶりが想像できます。

多くのニュース番組では本田選手のコーナーキックからのベルギーの攻撃を流しているだけでしたが、ネットでは本田選手のコーナーキックの蹴り方に焦点を当てて解説している記事がありました。本田選手がキーパーに直接キャッチされるようなボールを蹴ったことが「ベルギーの速攻を招いた原因である」という解説でした。

この記事が気になっていましたので、僕は本田選手のコーナーキックをキーパーがキャッチしてからベルギーの速攻がはじまる「一連の流れを見たい」と思っていました。なかなかその機会がなかったですが、週末のスポーツ番組で見ることができました。

その番組ではフィールドを上空から映し出していたのですが、選手の動きを全体的に俯瞰することができました。ベルギーのGKクルトワ選手がMFケヴィン・デ・ブライネ選手にボールを投げるところからベルギーの速攻がはじまったのがわかります。ここで重要なことはGKクルトワ選手の動作です。ただ相手陣営に向かってボールを蹴ったのではなくGKクルトワ選手がキャッチした瞬間に走り出していたMFケヴィン・デ・ブライネ選手に丁寧に手で投げていることです。

そのあと日本のディフェンス陣は速攻に気がつき、ベルギーの選手に追いつこうと必死に走る映像が流れていたのですが、そのときの日本選手の走る様がとても印象に残っています。

記事によりますとベルギーの決勝点はわずか「9.94秒」、タッチ数4タッチで決められています。練習をしていなければ、もしくは普段から意識を持っていなければできない芸当です。決勝点を決めるベルギー選手にほんのわずかに間に合わなかった昌司選手のスライディングが忘れられません。

僕はこの映像を見ていて「ドーハの悲劇」を思い出していました。先々週「キング・カズの思い出」としてコラムを書きましたが、その舞台となった「ドーハの悲劇」です。そのときのコラムに書きましたが、最後まで緊張感を持って試合に臨んでいたのはカズ選手だけだったことが「ドーハの悲劇」が起きた原因と僕は思っています。

今回の敗戦も残念ながら最後の一瞬に気の緩みが出たことが原因です。ネット上での解説では本田選手がコーナーキックで蹴ったボールがGKにとられる位置だったことを問題視していましたが、僕はチーム全体に油断があったことに原因があると思います。僕が想像するところでは、アディショナルタイム終了間際でしたので日本チームは本田選手のコーナーキックで試合が終了する気持ちになっていたように思います。ですから、ベルギーが速攻を仕掛けてくることを全く予想していなかったのです。気持ちに隙があったのでベルギーの速攻に対処できなかったのです。ベルギーの選手が決勝点を決めたときのゴール前のディフェンスの人数が物語っています。

日本のサッカーレベルがもっと低い頃、反則があったあとに与えられるフリーキックはいつもゆっくりと蹴っていました。ボールを反則地点に置き、周りも見渡してそれから蹴っていました。そうするのが普通だったからです。しかし、海外のチームの試合などを見てレベルが上がってきますと、試合状況によっては審判からフリーキックを与えられると、相手チームの守りの形ができあがる前にすぐにフリーキックを蹴る光景が見られるようになりました。海外の試合ではフリーキックを与えられたときに相手の隙をついたり油断している状況を利用するのが普通だったからです。

今回のベルギー戦もまさしく似たような状況で攻撃を仕掛けられたように思います。これを一言で言うなら「経験不足」です。もし、これまでに試合終了間際に速攻を仕掛けてくる強いチームと対戦していたなら、本田選手がコーナーキックを蹴る前からそのあとの相手チームの速攻に備える態勢がとれていたはずです。そのような経験がなかったことが敗戦の理由です。

ですが、日本チームの実力が全体的に上がってきているのは間違いのないところです。コロンビア戦は試合開始早々に相手チームの反則によりPKを与えられたことと相手チームが10人になるという幸運に恵まれたことが勝因ですが、第2戦は立派に日本チームの実力が上がっていることを証明してくれました。ポーランド戦は時間稼ぎをしたことで批判されましたが、1点しかとられていないことが実力が上がっていることの証明です。第1戦第2戦と好結果を得ていたからこそできる時間稼ぎでした。

大会がはじまる前は代表監督の交代などがあり、今一つ盛り上がりに欠けるところがありましたが、いい試合をしたことで人気を盛り上げることができました。また、サポーターのごみ拾いや代表選手の控室の使い方が賞賛されていますが、こうした評価はやはり日本人としてはうれしいものがあります。

じゃ、また。


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posted by satoaki at 14:52 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月01日

<やさしい人>

ワールドカップは日本チームの決勝トーナメント進出が決まり盛り上がっていますが、ポーランド戦の戦いぶりについては賛否両論があり物議を醸していました。しかし、否定派の人たちも次の試合がはじまるころには批判感情も忘れているはずですので一時的な感情に過ぎないように思います。西野監督の采配に納得できなくとも最終的には日本を応援したくなるのが人情というものです。人情を大切にすると穏やかで平和な社会になりますのでいいことです。


さて、僕の今の仕事は、車で移動しながらアパート・マンションなど集合住宅を清掃する仕事なのですが、先日はこれまでにない運転ミスをしてしまいました。僕は運転歴が40年以上ありますので似たようなミスをしたことはありますが、ここまでのミスはありませんでした。自分でも驚いている次第です。

僕はA型なのでルーチンに沿って行動することを苦にしないタイプです。特に仕事においてルーチンは「とても大切なこと」とさえ思っています。理由はミスをできるだけしないようにするためです。人間はミスをする生き物ですのでそれを前提に作業を進めるやり方を考えるようにしています。ですから、一つの物件を離れる際は忘れ物をしないように必ずうしろのドアから道具類の有無を声出しをしながら確認してます。

このようにしますと、集中力を欠いているときでもミスを防ぐことができます。ミスをしないために必要なことは、集中力がないときでもミスをしないやり方を考えることです。声出し確認はそのための方法です。

その日もすべての作業を終え声出し確認をし、車に乗り込み走らせました。定期的に行っている場所ですので帰り道も慣れています。コインパーキングから出て一方通行を10mくらい走ってから右折をします。右折をする道も一方通行となっており車一台が通れるくらいの道幅です。交差する道路がどちらも広いとは言えない幅ですので曲がる際は周囲に気を配りながら慎重にハンドルを切っています。

そのときももちろん慎重にハンドルを切っていたのですが、車が右に45度くらい回ったところで正面のビルの中に若い男性がタバコを吸っている姿が目に入りました。30才前後のワイシャツ姿の中肉中背の男性でした。ビルのそこの場所は車一台が停められるほどの駐車場になっており、その脇でタバコを吸っていたことになります。ちなみに止まっていたのはベンツでした。

先に書きましたように、普段でもその曲がり角は気を使っていますが、そのときは男性が目に入りましたのでいつもよりもさらに慎重にハンドルを切り右折を完了させました。その際に、なんとなくですがその男性が僕の車を注視しているように感じました。このような状況でハンドルを握っている人間としては、停まっているのがベンツだっただけに男性の心の中を「“ぶつけるなよ”と思っている」と想像するものです。やはり当て逃げされるのは誰でも悔しいものです。

一方通行とはいえそれほどギリギリの広さの道路ではありません。ですから、一応難なく右折を済ませそのまま進みました。運転する人は経験があると思いますが、運転をしているときに気なることがありますと自然にルームミラーでうしろを確認するものです。僕も右折が完了したあとにルームミラーでうしろを見ました。ビルの駐車場でタバコを吸っていた男性が気になったからです。すると、ルームミラーには僕の車を眺めている男性の姿が映っていました。

一方通行は15mほど走りますと、片側一車線の車の通行量が多い広い通りに出ます。僕はルームミラーを見ながらゆっくりと走らせ広い通りに出ました。広い通りを見ますと、車の往来が多く入り込めない状態でした。ですのでしばらく停まって車が途切れるのを待つことにしました。その間もたまにルームミラーを見ていたのですが、先ほどの男性が僕の車を見ているのがわかりました。なかなか車が途切れませんのでそのままルームミラー越しに男性を見ていたのですが、ついに男性が僕の車のほうにゆっくりと歩きだしてきたのです。

こういう状況になりますと、さらに男性のことが気になります。そのような緊張感も含んだ「気になる心持ち」でいながらも広い通りの車が途切れるのを見る必要があります。先ほどの男性も僕の車のほうに向かって歩いてはきますが、僕の車に用事があると決まったわけではありません。もし本当に用事があるのならあのように「ゆっくり」とではなく、小走りとは言わなくてともせめて急ぎ足で向かってくるはずです。

そのように思い直して通りの車の往来が途切れるのを待っていますと、うしろのほうから声がしました。

「すみません」

その声は不思議でした。声は聞こえたのですが、どこから聞こえたのかが定かではなかったのです。窓ガラスは開いていましたが、窓ガラスのほうから聞こえる声ではありませんでした。「うしろのほう」から聞こえるのです。このような状況になりますと、人間というのはキョロキョロするものですが、僕はまさしく首を右に左に回しました。すると、また声がするのです。

「すみません。うしろのドアが開いてますよ」

僕は咄嗟にルームミラーを見ました。そこには先ほどの男性が映っていました。僕が身体ごとうしろに向けて見ますと、男性は自分の声が僕に届いたことがわかったようで、さらにこう言ったのです。

「閉めましょうか?」

僕は思わず「あ、はい」と答えました。男性は力強く車を閉めてくれたのですが、僕はお礼を言おうとサイドブレーキをかけて車から降りました。すると男性は軽く右手を上げながら「大丈夫です」と言って戻って行きました。僕は大きめの声で「ありがとうございました」とお辞儀をしました。

まだまだこの世も捨てたものではありません。このようにやさしい人も世の中にはいるのです。男性はわざわざ15mも歩いて教えてくれたのです。しかも「閉めましょうか?」なんて、なんとやさしい方でしょう。そのような方をほんの少しでも「文句を言いにくる人」と思った自分が恥ずかしくなります。


ワールドカップで世の中は盛り上がっていますが、僕が今気になているのは拉致被害者の家族の方々のことです。米朝会談が行われても、結局、なにも進展がなくそれどころか北朝鮮は「解決済み」と伝えています。拉致被害者の家族の方々の落胆は如何ばかりでしょう。それを思うとかわいそうでなりません。

また、虐待事件での対応が批判された児童相談所ですが、一時期は関心が集まって改善される方向に進んだようですが、その後に関してはあまり報じられていません。児童相談所の不手際で幼い命が失われた事件はこれまでにも何件もありました。そのたびに世の中の関心があつまり、改善策が考えられる方向に話が行ってもまた同じ事件が起きています。これは、社会の関心が失われると「改善しよう」という流れがなくからです。

世の中には忘れたほうがいいことと、記憶に留めておかなければいけないことがあります。

その分別がむずかしい…。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 13:45 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月24日

<キング・カズの思い出>

ワールドカップで世の中が盛り上がっていますが、格上のコロンビアに勝利したのですから当然といえます。いろいろな番組で解説していますが、開始早々にペナルティキックとはいえ得点できたこととコロンビアに退場者が出たことが勝因です。このプレーを振り返ってみますと、相手チームがまだエンジン全開になる前に日本が攻撃したのが勝因のように思います。まだ気持ち的に集中していなかったからこそのコロンビア選手のハンドです。まさにコロンビア選手の油断、気の緩みです。そして、その隙をついた日本チームの集中力の賜物です。「なんとしても勝つ」という強い気持ちが起こさせた奇跡です。

僕の年代でワールドカップの思い出と言います、やはり「ドーハの悲劇」が強く記憶に残っています。そして、僕の頭の中にはあの試合での三浦知良選手の最後まで集中力を切らさない強い精神力を示す姿が刻み込まれています。

実は、僕はこのコラムでこのときのカズ選手についてたびたび書いています。ですが、ワールドカップで盛り上がっていますので久しぶりに書きたい気分になりました。あの試合はワールドカップ初出場の可否が決まる大事な試合でした。対戦相手はイラクでその試合に勝利すると初出場が決定したのですが、2−1で勝っていた試合の終了間際のロスタイム(今はアディショナルタイムと言いますが、当時はロスタイムと言っていました)にゴールを決められ同点となり、ワールドカップ初出場を逃してしまう結果となりました。これが世に言う「ドーハの悲劇」です。

この試合で僕が忘れられないのはキング・カズこと三浦知良選手が最後まで必死にプレーしていた姿勢です。終了間際ですから、当然どの選手もみんな疲れていたはずです。そんな中イラク選手が最後の力を振り絞って攻撃していたのですが、右サイドをドリブルで上がっていくイラク選手に必死に食らいついて対応していたのはなんとカズ選手だったのです。カズ選手はフォワードの選手です。そのフォワードの選手が自陣の右サイドの守りについていたのです。

僕が忘れられない映像は、右サイドを駆け上がって行くイラクの選手に必死について行き、イラクの選手が中央にセンターリングを上げるときにスライディングをして防ごうとする姿です。残念ながらセンターリングをあげられてしまい、ゴール前にいたイラク選手がそのボールにヘディングで合わせて得点されてしまいました。僕はこのときのゴールキーパーの動きも頭に残っています。

本来ならゴールキーパーはヘディングされた瞬間に横っ飛びで防ごうとするはずです。しかし、そのときゴールキーパーは反応していなかったのです。ただボールの行方を目で追っているだけでした。たぶん疲れていたこともあるのでしょうが、最後のロスタイムとい時間帯で一瞬だけ集中力が切れていたように思います。この気の緩みはほかの選手も同様だったはずです。だから右サイドを駆け上がるイラク選手についていたのがカズ選手だったのです。最後まで集中力を切らしていなかったのはカズ選手でした。

ゴールを決められた瞬間にベンチにいた中山選手のなんとも言えない表情でグランドに倒れこむ映像をテレビで見た方も多いでしょう。あのときの中山選手が絶望する姿ほどあのときの日本中の気持ちを表すものはありません。このあと中山選手はjリーグで数々の記録を作るのですが、その原動力はこのときの体験にあるのではないかと僕は思っています。

さて、なぜ僕がカズ選手のプレーを書いたかと言いますと、コロンビア戦で大迫選手が同じようなプレーしていたからです。1点ビハインドのコロンビアは当然のごとく猛攻撃をしかけてきました。僕が見た映像でイラク選手がゴールの右側からシュートをした際に右足を上げながらスライディングをしてきたのは大迫選手でした。2点目をとったフォワード選手である大迫選手です。スローで見ますと、大迫選手の右足に当たったことによってイラク選手のシュートはコースが変わりゴールから外れています。もし大迫選手が右足を出していなかったならゴールしていた可能性は大です。

このように今の時代はフォワードと言えども守備もきちんとこなすことが基本です。しかし、口で言うのは簡単ですが実際に行動するとなると大変です。何しろあの広いフィールドを端から端まで全力で走り回らなければいけないのですから体力はもちろん精神力も半端ではありません。今はやりの「半端ねぇ」です。それを実行している選手たちは素晴らしいのですが、その模範を作ったのがカズ選手ではないかと僕は思っています。その意味で三浦知良選手は「キング」と呼ぶにふさわしい人格者でもあると思っています。

僕はサッカーの熱烈なファンではありませんのでマニアほどの知識はありません。ですが、カズ選手についてはいろいろな思い出があります。カズ選手の奥様は美しい芸能人の方ですが、ブラジルにいた頃のカズさんが奥様を見て積極的にアプローチをして結婚をしたそうです。

かつて「笑っていいとも」という番組がありましたが、その中のテレフォンショッキングは人気があったコーナーです。芸能人が次の日のゲストを電話で直に依頼するコーナーですが、ある日のゲストが次の出演者としてカズ選手を紹介していました。そこでその芸能人がカズさんに電話をしたのですが、電話に出たときカズさんは寝ていたようでした。そのときゲストの人が「お昼なのにまだ寝てるの?」と言いますと、カズさんは「スポーツ選手は体力があるから激しいだよ」と返したので会場内は爆笑になりました。ユーモアのセンスもあるカズ選手です。

このようにカズ選手は芸能人とも交流があったことがほかのサッカー選手との違いですが、当時は田原俊彦さんとの交流もいろいろな番組で取り上げられていました。ご存知の方も多いでしょうが、カズさんはコンビニへ行くのにもわざわざおしゃれなスーツに着替えて出かけるなどというエピソードは注目を集めました。一見派手な言動ですのでおちゃらけた感じがしますが、ぶれない精神力は当時から持っていたようです。

あるとき写真週刊誌で奥様の不倫が報じられたことがあります。奥様が路上で男性芸能人と抱き合い唇を重ねている写真が報じられたのですが、テレビのワイドショーでは格好の題材です。多くの芸能レポーターがカズさんの元へ押し寄せたのですが、感情的になるのでもなく淡々と冷静に対応して「なんとか勘弁してくださいよ」と言って、なんとその騒動を収めてしまいました。その後、離婚することもなく現在に至って幸せな家庭を築いているのですが、スポーツ選手は家を留守にすることが多い中で、トラブルに遭いながらも幸せな家庭を築いているのは奥さんやお子さんとの接し方もきちんとしているからと想像しています。

今、日本人のサッカー選手は海外で活躍している人が多いですが、その先鞭をつけたのもカズ選手です。それにしても同年代の選手たちが引退し指導する立場になっている中で選手にこだわっている生き方も「なにかを啓示したい」意図があるのでしょうか。

じゃ、また。
P.S 今日の夜もがんばれ!

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posted by satoaki at 14:27 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月17日

<関心が続かない>

世界が注目した米朝会談は結局、当初の予想どおりの結果でおわりました。「当初の予想」とは「具体的なことはなにも決まらず会談だけ行われること」です。専門家に寄りますと、こうした結果におわることはトランプ大統領、金正恩党委員長の双方にとって意義があるそうです。トランプ大統領にとりましては秋の議会選挙に貢献しますし、中にはノーベル平和賞を期待しているとの意見もありました。また、トランプ大統領は前の大統領オバマ氏を否定することに重きを置いているとの意見もあります。どこまで本当なのかはわかりませんが、それなりの説得力はある解説です。

金党委員長にしてみますと、笑顔外交を世界にアピールできましたし米国の大統領と堂々と渡り合えたこと自体が成果といえそうです。うまくいけば制裁緩和を手に入れることもできます。心の中までを見ることはできませんが、結果だけを見ますと北朝鮮のほうが得をしたような印象が残ります。

今回の米朝会談について僕が納得できないのは、トランプ大統領が会見で「非核化の費用は韓国と日本が負担する」と発言したことです。まさにお金だけ取られる構図です。「そんな図々しい!」と思いましたが、安倍首相は「非核化により恩恵を受けるのだから負担は当然」と話していました。

結局、安倍さんはトランプさんに梯子を外された感があります。強硬外交を訴えていたにもかかわらず会談をしたのです。最初の頃は「完全に非核化することが会談の条件」でした。それが「完全の非核化に関係なく会談した」のです。安倍首相にしてみますと、本心では裏切られた気持ちなのではないでしょうか。

拉致家族問題につきましても大きな進展はありませんでした。これに関しては安倍首相は金党委員長と直接話し合う意向を示しています。被害者家族にしてみますと、安倍首相しか頼りにできる人はいないのが現実です。安倍首相は政局とは関係なく最後まで尽力をする義務があります。

「昔の」と言いますとかなり古い感じがしますが、それほど古い時期ではない昭和の時代の政治家には信念があったように思います。「歴史は勝者によって作られる」と言われますが、それを差し引いても昭和の政治家には弱者に対する配慮がありました。

かつて自民党の実力者に梶山静六氏という方がいました。田中角栄氏が全盛時代の幹部の一人で強面で武闘派として知られた方でしたが、この方は幹事長時代に野党に対して常に心配りをしていたそうです。そのことを知ったのはジャーナリストの筑紫哲也さんの本の中でですが、自民党に批判的な筑紫さんの本に書いてありましたので印象に強く残っています。

昭和の自民党にはそのほかにもあまり目立つことはありませんでしたが、弱者の立場に立って活動をしていた人がいました。そして、重要なことは幹部になった人がそうした人の意見を掬い取っていたことです。そのような記事や文章を幾度か読んだことがありましたので今の自民党の姿を見ていますと残念な気持ちになります。

帰国した拉致被害者である蓮池薫さんが活動を活発化している印象があります。講演会に参加したりマスコミにも登場しています。おそらく拉致家族問題を解決するタイミングが今しかないと思っているのでしょう。また拉致被害者家族の方々が高齢で時間がないことも影響しているようです。

話は少し逸れますが、今から10年ほど前に秋葉原で殺傷事件がありました。その犯人の弟さんに関する記事を先日読んだのですが、その弟さんは家族ということで普通の生活が営めなくなり自殺をなさっています。「犯罪者の弟は笑うことは許されない」と書いてありましたが、人間は本当に苦しい経験をするとそれが頭から離れず「笑うこと」さえ忘れてしまうのです。

蓮池さんは日本に帰って来られましたが、まだ北朝鮮には拉致されたままの人がいます。蓮池さんも心の底から安心して笑うことはできなかったのではないでしょうか。帰国してから15年以上経ちますが、それでも忘れずに活動をしていることに敬意を感じています。考えようによっては、蓮池さん自身はもう幸せな境遇なのですから忘れることも可能です。それを「全員が戻るまで」と活動する姿には頭が下がる思いです。

安倍首相に対する見方はとても難しいものがあります。第二次安倍内閣が成立させている特定秘密保護法・安保法・共謀罪法などは現在の「一強体制」でなければできないほど微妙な法律です。もし国会が与野党伯仲している状況ならもっと紛糾、もしくは廃案になっていてもおかしくない法案でした。それを強引に成立させていることを思うとき、安倍首相を支持するのには少し躊躇するものがあります。

しかし、拉致被害者問題を解決できるのは安倍首相しかいないとも思っています。こうした現実の中で安倍首相にどのように向き合っていけばよいのか迷っています。おそらく拉致被害者の家族の方々は安倍首相の続投を希望しているでしょう。こうした状況の中で僕が安倍首相に期待しているのは拉致問題を政局に利用しない正々堂々とした姿勢です。どうかつまらない計算などせずに政治家の道を進んでくださいませ。

その安倍首相と一線を画す姿勢を見せたのが是枝裕和監督です。映画「万引き家族」がパルムドールを受賞したことに対する顕彰を「辞退する」と発表しました。「公権力とは距離を置く」という信念からですが、是枝監督らしい対応です。

僕が初めて是枝監督を知ったのは「そして、誰もいなくなった」という映画を見たときです。これは妻とわざわざ映画館まで出かけて見たのですが、今CMなどで見かけることが多い柳楽さんが子役時代に主演賞を受賞している作品です。僕が言うまでもありませんが、是枝監督の映画はいつも弱者に対する視点が魅力です。今回の映画も含めて是枝監督の作品は見終わったあとに考えさせられることが多々あります。

「そして、誰もいなく…」も内容は児童虐待ですが、その当時から既に社会問題化していたことになります。あれから15年以上経つのにまだ同じような事件が起きています。「同じよう」というよりも「もっと悲惨な」というべき事件でした。しかも今回の事件だけではありません。もっともっとたくさん虐待事件は起きています。

なぜ、こうした状況が改善しないかと言いますと社会の関心が薄れるからです。今回の目黒区の事件も今でこそ現場に花束をささげる人がたくさんいて、マスコミでも取り上げていますが、2ヶ月もすると忘れ去られてしまうでしょう。

大人にとって最も大切なことは、当事者でなくても世の中で起きた悲しい出来事を心の中に刻み付けることではないでしょうか。社会が関心を失わなければ世の中は必ず改善されるはずです。


「愛の反対は、無関心である」 マザー・テレサ

じゃ、また。

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posted by satoaki at 13:56 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月10日

<仕事の責任>

ほとんどのテレビ局が取り上げていますので食傷気味の人もいるでしょうが、やはり僕も書かないわけにはいきません。目黒区の虐待事件です。多くの人が同じだったと思いますが、結愛ちゃんが書いた「ひらがなの文字」は誰もの心を揺さぶる衝撃がありました。

「もうおねがいです。ゆるしてください」

報道に寄りますと、食事もまともに与えられず寒い日にベランダに放置されたこともあったそうです。死亡時の体重が平均の半分くらいしかなく、また免疫機能に関わる臓器が普通の子供の1/5ほどの大きさだったそうです。まさに鬼畜と呼ばれて当然の親の虐待です。

このような事件があるたびに僕は鬼畜の親の周りの大人の責任に思いが至ってしまいます。以前、「自分の子供に犬用の首輪をつけている友人の振る舞いを見て、警察に通報してその子供を助けた」というニュースを見たことがありますが、今回の事件も周りの大人が防げた事件のはずです。

もちろん父親が最も悪いのですが、奥さんの連れ子であったことを考えますと一番の責任は母親にあると思います。報道では「自分の立場が悪くなるのが嫌で、見ぬふりをしていた」と母親は話しているそうです。親としての自覚に欠けており、親として失格です。

同じことが結愛ちゃんの母親の親にもいえます。自分の子供が小さな子を連れて離婚をして再婚したのですから注意を払う必要があります。この親御さんがテレビ局のインタビューに答えていましたが、せめて祖父母が結愛ちゃんのことを親身になって考えていてくれたなら結愛ちゃんの命は救えたように思えてなりません。それが残念です。

親も祖父母も頼りにならないとき、その次に結愛ちゃんを救えた可能性があるのは児童相談所です。結愛ちゃんの家族は目黒区に来る前は香川県に住んでいたそうで、そこでは結愛ちゃんを幾度か一時保護もしていたようです。つまり、児童相談所がしっかりと機能していたことになりますが、もしかしたなら結愛ちゃんの両親はそれを避けるために目黒区に引っ越したのかもしれません。

目黒区に引っ越した際には香川県の児童相談所から連絡が行っていますので、この段階までは児童相談所は機能していたことになります。このように連絡を報告するシステムになっていませんと、せっかくの児童相談所がなんの役にも立たない機関になります。香川県の対応はある程度完璧に行われたいたようですが、問題はここから先です。

目黒区の児童相談所の担当者も香川県からの連絡を受けて結愛ちゃんの自宅を訪問しています。ですが、母親に関わることを拒否されてそのままにしていました。結愛ちゃんの命を救えなかった原因はここにあるように思います。おそらく多くの人が僕と同じ感想を持ったと思いますが、この担当者の方がしっかりと責任を持って仕事に取り組んでいたなら結愛ちゃんの命は救えたはずです。

常識的に考えて香川県で一時保護を数度されている状況を考えるなら、母親が関りを拒否した段階で異常を感じて当然です。素人である僕が考えてもそのように判断できるのですから専門家である担当者の方なら「より以上に危険性」を感じなけらばいけない状況です。厳しい言葉で言いますと、仕事に真剣に取り組んでいない証拠です。

例えば、スーパーのレジの方が「対応が悪い」場合はお客さんが不快になるだけで済みます。命が危険になるリスクはありません。ですから、仕事に真剣に取り組まなくても小さな問題で済みます。場合によってはクレームが原因で職を失うこともありますが、それは責任は自分にあるのですから仕方のないです。

それに対して児童相談所で働いている人は対応を一つ間違えますと、子供の命が危険に晒されることもあります。児童相談所で働いている方々は、そのことをしっかりと自覚して仕事に取り組む必要があります。そのことを自覚できない人は児童相談所の仕事に就くべきではありません。児童相談所の仕事に向いていない人です。そして、向いていない人が採用されないシステムにする必要があります。

担当者を批判する意見に対して、人員不足といったリソースに原因があると指摘する意見があります。一人の担当者が100件の案件を抱えるケースという例などを紹介していますが、組織に問題があるのなら組織を改革する行動を起こすべきです。

組織について考えるときに避けて通れないのが個人の仕事への取組み方です。僕は飲食店を廃業して以来清掃業界で仕事をしていますが、この業界は個人差が表面化するという特徴があります。テキパキ効率よく作業をする人とそうでない人では仕事の進捗状況に大きな差が出てきます。僕の仕事に対するポリシーは「自分の働きに見合った報酬を受け取りたい」ことですので僕は現在管理会社の下請け形式として働いています。

年齢が年齢ですので若い人の作業スピードにはかなわないと自覚していますが、それを含めてのんびりやろうが素早くテキパキやろうが僕の自由です。結果が出ているならスピードを問われない下請け方式のほうが時間の自由も含めて納得できる仕事をすることができます。

しかし、児童相談所で働いている方々の勤務形態は違います。決められた時間内に仕事を終わらせる必要があります。そうなりますとのんびりやっている人とテキパキやっている人ではこなせる仕事量に差がつくことになります。そうした状況の中で「満足できる仕事をできない理由」をリソースに求めるのは納得できない気持ちになります。

百歩譲って人員不足などのリソースに問題があるとしても、最終的にはきちんと仕事をやり遂げられない状況を受け入れていることになります。結愛ちゃんの母親が「見ぬふりをしていた」ことと同じです。担当者または児童相談所で働いている方々はそのことを自覚してほしいと思います。そうでなければあまりにも無責任です。


神戸ではいじめ事件に関して許しがたいニュースがありました。
「教育委員会の首席指導主事が教職員が女子生徒の友人から聞きとったメモを学校側に隠蔽するように指示していた」
というものですが、その理由が「事務処理が煩雑になる」というあまりにひどいものでした。このような考えをする人が教育関係の仕事に就いていたのですから何をかいわんやです。


国会では働き方改革が審議されていますが、どれほど働き方が改革されようとも仕事に対して責任を持つことは普遍の真理です。これをないがしろにするならその国は亡びるでしょう。国会を見ていますと役人の仕事の重要さがわかりますが、その役人の仕事は政治家を守ることではないはずです。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 14:18 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月03日

<自浄作用>

僕がテレビを見る時間帯はだいたい決まっていまして、妻と二人で仲良く(?)食べる晩御飯のときです。僕たちの晩御飯の時間はだいたい7時半くらいからはじまりますので、僕の見る番組も限られてきます。通常、テレビのチャンネル権は妻にありますが、晩御飯のときだけは僕にチャンネル権があります。一応、我が家は亭主関白を装っていますので僕の意見が通ることになっています。

このような状況で僕がチャンネル権を駆使するのですが、見たい番組がそれほどあるわけではありません。僕が好きな番組名を紹介いたしますと月曜はNHKの「鶴瓶の家族に乾杯」、火曜はなくて水曜はやはりNHKの「ためしてガッテン」、木曜はなくて金曜もなくて土曜はNHKの「ブラタモリ」、日曜はNHKの「ダーウィンが来た」です。ちなみに、僕はNHKにお金を払っています。

以前、「鶴瓶の家族に乾杯」の番組の中で70才くらいの男性が「テレビは作り物ばかりでつまらないから、自分はドキュメント番組しか見ない」と話していました。テレビに対して懐疑的な考えを持っている人は「結構いるんだなぁ」と思った記憶があります。

今はSNSの時代ですが、「鶴瓶の家族に乾杯」に対しても「あれはヤラセ」という書きこみが結構あるそうです。それを意識しているようで番組の中で鶴瓶さんはしきりに「突然来てごめんなさい」というようなセリフを言っています。つまり「ヤラセではない」ということを強調しているのですが、今の時代はヤラセを想像する人がいても不思議ではありません。

そういう人がいる反面、ツイートなどの情報が事実の確認がなされないまま安易に拡散されることもあります。つい先日も、「うどんのお店にある大学の職員が大人数で予約を入れておきながら、ドタキャンした」というツイートが拡散されて、多くの人がその大学を非難するツイートをしたそうです。しかし、実はそのうどん店も大学も架空のもので実在しないことがあとから判明して物議をかもしました。

こうしたウソの書き込みの善悪は別にして、ツイートの事実を確認しないまま拡散する人がたくさんいることが証明されたことになります。一時期フェイクニュースが話題になりましたが、フェイクニュースに対して敏感になる感性はまだ育っていないようです。

かつては大手マスコミは信頼の象徴でした。つまり、大手マスコミが報じることは「真実である」ことを証明する役割を担っていました。しかし、最近は大手マスコミの信頼感も薄らいできているように感じます。また、かつてはニュースとして取り上げる際の選択基準は社会的な「価値」とか「意義」に置いていたように思っていましたが、最近は自社の主張に沿っているかどうかで選択しているように感じています。

僕がそうしたことを感じるようになきっかけは家計学園問題の報道時でした。かれこれもう1年以上疑惑が引きずられていますが、その発端を作った前川喜平氏に対する報道です。覚えているでしょうか、あのとき「出会い系バーに通っていた」と読売新聞だけが報じました。僕の中ではこの報道がマスコミに対する信頼感を一気に失せさせてしまいました。それまでにも気になる報道はあったのですが、あのニュースで一気に気持ちが覚めた記憶があります。

世の中は常に動いていますのでつい先日のような気がしますが、家計学園の疑惑が報じられてからもう1年以上経っています。そして、現在でもまだ家計学園の疑惑は晴れないままです。ことの顛末は省略しますが、先日は家計学園の事務局長が愛媛県を訪れて弁明する会見を行っていました。1年以上全く進展していないことを示しています。

僕は安倍首相を好きでも嫌いでもありませんが、強いて言うなら「好きな」ほうに入る政治家です。現在の激動する世界において極東の小さな島国である日本が存在感を出すには「安倍首相しかいない」とまで思っています。週刊誌などでは「トランプ大統領の言いなり」などと批判されていますが、どれほど常識はずれの大統領であろうとも日本は米国と親しい関係でいる以外に世界で生きていく術はありません。北朝鮮の拉致家族問題についても安倍首相以外に解決への道筋をつけられる人はいないでしょう。

このように安倍首相の政治家としての才覚は素晴らしいとは思っていますが、森友学園と家計学園問題においての対応は「あまりに誠実さに欠けている」と言わざるを得ません。共産党の小池議員が「ご飯論法」と指摘していましたが、誰が見ても質問に誠実に答えているようには見えません。「誰が見ても」というよりは「中立な第三者が見ても」が正しい言い方かもしれませんが、最近の国会ほど虚しい論戦はありません。なにしろ質問に対する答えになっていないのですから…。

今の安倍首相を取り巻く状況は、一昔前ですと間違いなく政権が倒れています。それが起こらないのは自民党内において対立する人がいないからです。かつては派閥があり、派閥間の争いがいい意味で自浄作用を起こしていました。しかし、今の自民党には安倍首相に対抗できる人材がいません。すべての問題の根源はここに行きつきます。

石破さんが遅ればせながらながら対抗者に名乗りを上げそうな言動をとっていますが、弱小派閥なのが難点です。岸田さんは今一つ気概に欠けているように映りますし、二階さんが安倍首相の三選を支持していることも見逃せません。

小泉進次郎さんは将来有望な政治家だと思いますが、まだ時期尚早です。おそらくそのあたりのタイミングはお父様がアドバイスをしているでしょうから、今は動かないでしょう。そんな中、実は僕が密かに期待しているのは河野太郎外務大臣です。今でこそ河野氏は安倍首相の閣内に入っていますが、それまでは安倍首相を追求する先鋒に立っていました。安倍首相が河野さんを外務大臣に抜擢したのは批判的な人を取り込む意図があったように思います。

まだ河野氏が要職に就く前のことですが、あるラジオ番組に出演していました。そこで話していたことは安倍首相の運営の仕方に対する批判と「自民党を変える」ということでした。今、自民党で安倍首相に批判的な発言をしているのは村上誠一郎氏ですが、そのときの河野氏は村上氏のような正論を話していました。その河野さんが外務大臣に就任したのですが、僕は安倍首相に取り込まれたというよりも閣内にいて動向を探っているように思っています。

話は逸れますが、自衛隊の日報が保存されていることが次々に明るみになっていますが、「廃棄した」と外務省が発表したときに、「いや、どこどこに残っているはずだ」と最初に声を上げたのは河野さんです。まだ閣僚になる前のことですが、河野さんは自民党や政権が正しい方向に行くように常に考えている人という印象を僕は持っています。



日大の反則行為をしたアメフト選手が会見をしたとき、マスコミ人や見ているほとんどの人が彼の真摯な態度に感銘していました。そうした周りの人たちの清廉潔白さを求め支持する姿勢や熱意が監督やコーチを辞任へと追い込んだように思います。また、ほかの選手たちも自らを省みて反省する姿勢を発表しています。

スポーツという世界においては自浄作用が働いて正しい方向へ向かう道筋を作ることができるのに、なぜ政治の世界ではできないのでしょうか。僕はそれが不思議でなりません。内田監督とコーチに対して厳しく追及したマスコミや周りの大人が、一大学の運動部よりももっと重要である国家の監督に対して追及ができずにいる状況に歯がゆさを感じています。

日本という国がしっかりとした民主国家であるなら自浄作用が働くはずです。そして、自浄作用は政治家だけが起こすのではなくマスコミや周りの大人が起こすべきものです。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 14:06 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月27日

<フェアプレー>

先週は日大アメフト選手の悪質タックル問題で新たな展開がありました。ほとんどの放送局で大きく取り上げていましたが、僕もいろいろな思いがありましたので書きたいと思います。

その前にボクシングの井上尚弥選手のタイトルマッチについて書かせてください。とにかく強かった。実は、僕は試合をリアルタイムで見ていませんでした。試合があることを知らなかったからですが、あとから見た映像は井上選手の強さを証明していました。

元々はフライ級の選手ですので体格的には不利でしたが、その不利を感じさせない戦いぶりでした。これで井上選手はバンタム級もチャンピオンになりましたので3階級を制覇したことになります。試合後、今秋に行われるボクシングのチャンピオン同士が戦うトーナメント大会に参戦することを表明しましたが、世界が「モンスター」と認めていますので今から秋の大会が楽しみです。

井上選手の強さを物語るエピソードとして、高校生のときに日本ランカーになっていた田口良一選手とスパーリングをしたときの逸話があります。普通に考えますと、プロのランカー選手とアマチュアである高校生がスパーリングをしますと高校生は歯が立たないものです。しかし、そのスパーリングで田口選手は高校生である井上選手にダウンを奪われたのです。常識では考えられない光景です。田口選手は悔しくてその夜に泣いたそうです。それほど井上選手はずば抜けて強かったのです。

僕はたまたまその映像を見たことがあるのですが、井上選手のパンチを受けてダウンをした田口選手の姿に驚かされました。周りで見ていた人たちがどよめいたいたのがわかりましたが、田口選手はこのあと日本チャンピオンになり世界チャンピオンにまでなるほどの選手です。その選手からダウンを奪ったのですからその強さがわかろうというものです。ちなみに、その後二人は日本チャンピオンと挑戦者という立場で対戦していますが、判定で井上選手が勝利しています。

その井上選手の素晴らしさは強さだけではなく性格や人柄にもあります。以前マスコミ受けすることばかりを狙っていたボクシング選手がいましたが、対照的にパフォーマンスをすることなく礼儀正しく自然に振舞っている姿勢は好感です。やはりプロといえどもスポーツにはフェアプレー精神が求められて当然です。

そのフェアプレー精神とはかけ離れたプレーが問題となったのが日大アメフト選手の悪質タックルです。先週は当該選手が記者会見を開いていましたが、あの率直な話し方や受け答えをする姿勢に好感した人は多かったのではないでしょうか。

若干二十歳の学生が多くの記者が周りを囲んでいる会見場で発言するのは勇気と覚悟と度胸が必要です。もちろん小心者の僕にはできませんが、大人の中でもどれだけの人ができるでしょう。それを思うとき当該選手の行動は賞賛されるべきことです。

当該選手が記者会見を行った翌日に日大の監督とコーチも記者会見を行いましたが、「自分たちの立場を悪くしないため」という印象はぬぐえませんでした。多くの人が指摘していますが、「選手のため」とか「責任はすべて監督の自分にある」などと言いながら「選手が間違って理解した」と選手に責任を押しつけているのはあまりにみっともない姿でした。

結局、当該選手と監督・コーチの説明には齟齬があり、どちらに真実があるのか判断に迷うところです。ですが、その後に会見を開いた被害者側である関学のGMマネージャー・監督は「当該選手のほうに真実がある印象を持っている」と話していました。

関学の会見に追い打ちをかけるように、日大の内田監督がマスコミのインタビューに「俺がやらせた」と答えている生々しい音声を週刊誌が公開しています。これだけいろいろな証拠が出てきますと、日大の監督・コーチの言い訳は通用しなくなるように思います。

さらにこの問題はアメフトだけではなく日本大学のガバナンスの問題にまで広がっていきそうな気配です。かつて日大で教授を務めていた女性が過去に相談を受けたパワハラについてもマスコミで告発していました。「#Me too」が世界的に席捲している現在の状況ではなにかのきっかけで問題が広がる可能性もあります。

また、日大の理事長がパチンコをやっている映像が流れていましたが、こうしたマスコミの動きはこれから「日大を追求する」という狼煙を上げたようにも感じました。理事長のかつてのスキャンダルなども伝えられていますのでアメフトから日本大学の本体にまで問題が広がりそうは気配です。


今回の監督・コーチの記者会見には多くのマスコミが集まり質問がなされました。マスコミは監督・コーチがどのように答えるかに注目していたのですが、現場では日大広報部の司会者を務めた方にも注目が集まることとなりました。理由は、その尊大な話しぶりや会見の仕切り方に問題があったからです。

僕はこの会見をリアルタイムで最後まで見ていたのですが、謝罪会見の司会者として不適切な言動に違和感を持ちました。この司会者に関してテレビ各局に登場するリスクマネジメントの専門家たちが一様に「下手さ加減」を批判していましたが、誰が見ていても尊大と感じる仕切りぶりでした。この方は元々は共同通信社の記者をやっていた方のようでマスコミの内側にも精通しているそうです。その経験がマスコミに対してぞんざいに対応させていたようです。

この方の発言で僕が印象に残っているのは「同じような質問ばかりですので」という言葉です。会見を終了させたいがための発言のようにも受け取れますが、僕には的を射た発言のようにも思えました。実は、記者会見を見ていて僕が感じたことは記者の方々の質問の仕方が下手なことでした。

記者の個人的な資質もあるでしょうが、根本的な問題としてマスコミ各社がバラバラに質問しますることが記者会見を実りの少ないものにしているように感じました。僕も司会者と同様に同じような質問ばかりで「全然進展しない」と感じていました。時間ばかりが過ぎてしまい、意味のない記者会見の印象になっていました。

記者会見におけるこうした問題は今回に限ったことではありません。そして、その理由はマスコミ側にあると僕は思っています。僕はニュース番組を見ることが多いですが、番組を見ていて最近感じることがあります。それは会見のようすを放映する場面でですが、わざわざ番組の出演者が質問している映像を流すことです。まるで「こうしてちゃんと質問していますよ!」と訴えているようです。

このようなことを各番組の出演者がしますので自ずと同じような質問ばかりをすることになってしまいます。番組的には出演者をアピールする効果があるのでしょうが、取材を受ける側にしてみますと同じ質問ばかりが続くことになります。日大の監督・コーチへの質問はそのような場面が多々ありました。質問する前にマスコミ名と氏名を名乗ってから質問していましたので余計に非効率な取材現場となっているように感じました。

マスコミの皆さんもおそらく僕が感じていることと同じことを感じているはずです。ここはひとつ自らを反省するという意味で記者会見の質問のやり方をマスコミが揃って工夫することを考えてほしいと思っています。取材する立場であるマスコミにもフェアプレー精神が求められるはずです。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 15:20 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする