2017年08月27日

<問題だよなぁ>

僕は変な考えをするタイプの人間ですので、ちょっと普通の人とは違うことを考えたりするのですが、どうして世の中には矛盾していることや不公平なことが多いのかなぁなんて考えちゃいまいう〜。

最近、「なんか矛盾してるよなぁ」と一番思ったのはコンビニの本部がコンビニオーナーに行った研修についてのニュースです。この研修は、今年の初め頃にコンビニオーナーがアルバイトの人に対して違法な働き方をさせていたことが報じられたことを受けてのものです。
記憶にある方も多いでしょうが、アルバイトの人が急に休んだりしたときに罰金と称してお給料を減額していたり、アルバイトの人に強制的に商品を買わせたりしていることが報じられました。こうした行為は普通の感覚で考えたならどう考えても理不尽です。ですから、研修などするまでもなく常識的な感覚を持っているオーナーさんならしないはずですのでわざわざ研修までする必要はないように思えます。その証拠にほとんどのコンビニではアルバイトの人に対してそのような働かせ方はしていません。
僕が「矛盾している」と感じたのは、加盟店に対して「アルバイトを雇用する際の正しいやり方」を指導する本部の姿勢です。なぜなら、本部は加盟店に対してそれ以上に理不尽な対応をしているからです。最近はコンビニ本部と加盟店の不公平な関係が一般の人にも知られるようになってきました。そうした状況になったのもインターネットが普及したからですが、ネットの効用と言えます。
(興味のある方はご覧ください⇒http://blog.yam5.com/archives/42)
以前からコンビニ本部の問題点は指摘されていましたが、大きな報道と言いますか、流れにならないのはコンビニがテレビ局や新聞の大口の広告スポンサーだからです。ですから、民間のテレビ局では難しいですが、スポンサーとは関係のないNHKではコンビニ本部の問題点を取り上げていました。
(興味のある方はご覧ください⇒http://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3894/1.html)
コンビニ本部が加盟店に注意を喚起している問題点は、まさに本部が加盟店に行っていることです。そして、それを違法ではなく堂々とできるのはフランチャイズシステムという特殊な契約内容だからです。この契約内容は、普通の感覚で考えますとどう見ても理不尽としか思えない内容です。例えば、お店を休んだなら多大な違約金を取られますし、強制的に商品の購入を迫られています。こうした状況を理不尽と言わずなんと言いましょう。そのような対応をしている本部が、加盟店に「正しい対応をしましょう」と研修していることに僕は矛盾を感じたのです。

僕はテキストやコラムで書いていますが、フランチャイズシステムであるコンビニの経営法を批判しています。ですが、最近になり少し考えが揺らいでもいました。理由は、僕が長年年賀状のやり取りをしている二人の方がコンビニの加盟店を営んでいるからです。
このお二人の方はもう20年以上続けています。そして、驚くべきことに一人の方はお子さんにコンビニを継がせていますし、もう一人の方は息子さんに2店目を出店させています。もし、コンビニ経営にあまりに問題点があるのであればお子さんに継がせたり息子さんに2店目を出店などさせないでしょう。そうした事例が身近にありましたのでちょっと考えに揺らぎが生じたのでした。
ですが、先月の東洋経済という週刊誌で加盟店主の座談会のような記事があり、それを読みますとやはり加盟店主の理不尽な立場は残ったままのようでした。ですので、批判する気持ちが強くなっています。
コンビニ本部は幾つかあり、それぞれの本部により加盟店への対応に違いはあります。ですが、共通しているのは「店舗を自前で用意できる人」と「そうでない人」では契約内容に大きな違いがあることです。「用意できる」とは土地を持っていたり建物を持っていることです。もちろん「店舗を自前で用意できる人」は「そうでない人」に比べ本部から支払われる報酬の割合なども含めてその他諸々なことが有利な条件となっています。
こうしたことから考えますと、僕の知り合いの人たちはもしかしたなら有利な条件で契約をしている人かもしれません。そうでなければ「余程立地条件がよくて売上が好調である」と考えられます。名目上としての立場は経営者ですのでお給料がもらえるわけではありません。それでもお子さんたちもコンビニ経営に参加しているのですからある程度の売上げがあることが想像できます。
問題は「ある程度」の金額です。先の経済誌では20代のサラリーマンとおおよそ同額の収入額が書いてありました。また、NHKの番組でも同じような金額を報じていました。こうしたことから想像しますと、この金額でほぼ間違いないように思います。サラリーマンとあまり変わらないのであれば、人によってはこの金額で納得する人もいるかもしれません。一応は一国一城の主なのですから、その満足感もあります。しかし、サラリーマンとは労働時間が圧倒的に違っています。
問題はさらに深くなっていきます。契約上の立場は経営者ですので雇用されているわけではなく労働者として保護されることはありません。ですから、どんなに長時間働こうが自分の責任の範囲ということになります。ところが、オーナーはお店の営業時間を短くすることも休日を設けることも自分で決めることができない身分なのです。いったいどうして、休業日を自分で決められない立場の人が経営者なのでしょう。僕はそこに矛盾を感じます。もし、営業時間を変更したり休んでしまったなら多大な違約金を取られることになります。そんな経営者がいるでしょうか。

僕がコンビニのフランチャイズシステムで最も憤りを感じるのは本部と加盟店の関係が不公平なことです。加盟店側がとても不利な契約内容になっています。その根本的な要因は「本部にがんじがらめに縛られているにも関わらず法的な立場は経営者になっている」ことです。「なっている」というよりは「させられている」のほうが正しい表現かもしれません。
今回、僕が言いたいことはコンビニ本部の問題点はありません。そこで働いている人たちの心の中です。コンビニ本部で働いている人たちはこのような実態についてなにも疑問や違和感を感じることはないのでしょうか。「本部のやり方は問題だよなぁ」と考えることはないのでしょうか。僕はそれが疑問なのです。

現在の米国はこれまでに比べて人種差別が大きくなっているように見えます。トランプさんが大統領になったことがきっかけと指摘しているメディアもありますが、奴隷制度を支持していた人物の銅像の撤去を巡って衝突が起きました。この騒動に関して、トランプ大統領はが人種差別をする人たちを批判しなかったことが物議をかもしています。トランプ大統領に抗議する意味で多くの側近たちが役職を辞任しています。

「私には夢がある」

これは黒人の公民権を獲得するために活動したキング牧師の言葉です。それまで黒人は大っぴらに差別されていました。レストランも区切られていましたし、トイレも白人とは別でしたし、バスの座席も別でした。そのように差別されていた時代にキング牧師は人種間の差別がなくなる時代を夢見ていたのです。その夢に向かって一歩ずつ前進している中で公然と人種差別を訴える動きが活発化していることを危惧しています。

それにしても、どうして他人を差別したがる人がいるのでしょう。おそらくそのような人たちは常に自分が有利な立場にいたい人なのでしょう。また、常に優越感を持っていたい人なのでしょう。しかし、そのような考えの人が世の中を平和にできるとは思えません。人間には誰にも悪の心があるそうです。その悪の心をしまいこんでおく努力を続けることが大切です。そのためには自分の利益だけではなく、ほかの人の利益についても常に案じる気持ちを持つことが大切です。

コンビニ本部で働いている人たちが加盟店オーナーの気持ちを考えてくれればいいなぁ。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 14:24 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

<nanisotu>

僕はほぼ毎日妻とスーパーに買い物に行き、マックのコーヒーを飲むのを日課にしています。これまでにも書いていますが、これまでの平均として1年のうち360日はここのコーヒーを飲んでいます。今年は、現時点で行かなかったのは二日だけですのでこのペースでいきますと、今年の来店日数は363日になる予定です。おそらくここのマックでは来店日数のベスト3に入ると自負していますが、実際はどうでしょう。
僕はマクドナルドを呼ぶときに短くして「マック」と言いますが、先日テレビでマクドナルドの呼び方についてアンケートを取っていました。マクドナルドには「マック」のほかに「マクド」という呼び方があるそうですが、この違いは地域によるそうです。主に大阪を中心とした関西の地域では「マクド」と呼び、それ以外の地域では「マック」と呼ぶのが一般的だそうです。これは言葉の発音の仕方が大阪とほかの地域では違うことが理由のようです。僕が「マック」と呼ぶ理由がわかりました。
「マック」にほぼ毎日行くということはこのスーパーにもほぼ毎日行っていることですが、そのスーパーの店内放送で面白いアナウンスを聞きました。
店内を歩いていますと、一定の間隔を開けて各店舗の紹介とか宣伝のアナウンスが聞こえてきます。大きなスーパーですのでお店が幾つもあり、すべての店舗を見ることはありませんのでこのアナウンスはとても意味がありますし、効果もあるように思います。
店内放送を担当しているのはサービスカウンターという部署だと思いますが、店内放送から聞こえてくる声はとても聞きやすく話すことに慣れている人がアナウンスをしていることが想像できます。
また、店内放送には幾つかの種類のマニュアルがあり、多くの場合それに沿って読んでいると思います。ですから、店内放送の内容によって最後の終りのセリフはいつも同じです。

さて、ある日店内を妻と歩いていますといつものように店内放送が流れてきました。そして、最後のいつものフレーズのところに差し掛かりますと、いつもとは違う言葉が流れてきました。

「…ナニソツ、よろしくお願いいたします」

一瞬、僕の思考が止まり、、、「ナニソツ…?」。

しばらく考えてから妻に尋ねました。
「今、なんて言った?」

すると、妻は驚いたふうなど全く見せず平然と
「『何卒』を読み間違えた」

と答えたのです。

ああ、なるほど確かに、「ナニソツ」だ。

僕は声を出して文字を読むのが苦手です。声を出して読むと内容が全く頭に入ってこないのです。これは小さい頃からそうなのですが、中学生になっても高校生になっても大学生になっても変わりませんでした。もちろん今もそうです。声を出すことに全神経が使われ内容を理解することにまで頭が回らないからと自分では思っています。
たぶん、「ナニソツ」の人もそうだったんだろうなぁ…。

一度にいろいろなことができない僕の今の悩みはホームページを移行させなければいけないことです。僕はこれまでKDDIのホームページサービスを利用していたのですが、そのサービスが「今年の10月で終了する」という通知がきました。ですので、それまでにどこかに引っ越しをしなければいけないのですが、どこにしようか迷っています。
実は、今の僕のホームページ訪問者数は芳しくありません。昨年か一昨年か忘れていまいましたが、ホームページを作り替えたときから訪問者が激減しています。訪問者を増やす目的で作り替えたのですが、反対に激減してしまいました。
そのような反省がありますので、今回引越しをする際は訪問者が増えるような対策をとりたいと思っています。ですが、如何せんパソコンの知識が少ないのがネックになっています。いろいろ本を読んだりして勉強するのは本当に時間がかかりますし、根気も要ります。このどちらもが足りませんのでなかなか実現させることができずにいます。
現段階でわかっていることは、ホームページの作り方には2通りがあることです。これまでのようなホームページを作る方法と、ブログのようなホームページを作る方法です。そして、検索で上位にいくには後者の「ブログのようなホームページ」のほうが有利なそうです。代表的なものとしてwordpressがあるのですが、このサイトを作るにはやはりある程度の知識が必要のようで、また勉強を迫られることになります。
実は、今僕が挑戦しているのは「紙芝居のような動画」です。これを作るのにまた新たにイラストについて勉強したり、音楽関係のソフトについても勉強しなければならず手間取っています。

「手間取ってる」と言いますと、安倍首相もトランプ大統領も政権運営に手間取っているように見えます。トランプ大統領は周りのスタッフがどんどん離れていっていますので素人目にも末期症状のように感じます。
安倍首相に関しては沖縄北方担当相に就任した江崎鉄磨氏意外は順調に仕事をこなせる閣僚が揃っている印象があります。江崎氏も閣僚という立場での発言の重みを理解しはじめたようでこれまでなんとかボロを出さずに済んでいるのは当選7回という実績が伊達ではないことを証明しています。なにしろ「素人なので、官僚の用意した文章をしっかりと読む」と公言した方ですので本気で政治家を務めたならそれなりにこなせるはずです。
ただし、ひとつ心配なのはいつか間違って「ナニソツ」のような読み間違いをしそうなことです。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 14:07 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月13日

<終戦記念日>

このコラムを書くようになってかれこれ10年以上経ちます。最初は、auさんのブログを使っていましたが、auさんがサービスを終了してからseesaaさんにお世話になっています。その間ずっとコラムを読んでくださっている方はご存知と思いますが、僕はこの時期になりますと、戦争について書かずにはいられません。

僕は専門家でも知識人でもなく、また思想的にも右でも左でもなく上でも下でもなくごく平凡に人生を生きている還暦のおじさんです。ですので、小難しい視点で戦争をとらえることはできません。ですが、どこにでもいる平凡なおじさんの視点のほうが若い人にわかりやすい情報を伝えられるのではないか、と思っています。そして、僕にとって重要なことは伝える情報ではなく、還暦になった今でもどのようにするのが正解なのか悩んでいることを知ってもらうことです。

僕が「戦争」と言いますか、社会について真面目に考えるようになったのは大学生になってからです。高校時代は社会について考えるよりもクラブ活動について考えていたように思います。そして、大学生になって少し世の中について知るようになり、社会について考えるようになりました。ですから、二十歳前後の若い人たちが戦争や政治について知識がなかったり関心が薄かったりしても全く不思議とは思いません。

僕のような学生は僕の周りにたくさんいましたので、僕は当時の二十歳前後の若者の平均像だと思います。しかし、中には政治に強い関心を持っている人もいましたが、そうした人は全体からしますと少数派でした。

僕よりも一世代前の学生を見ますと、ベトナム戦争の影響で反戦運動や安保闘争という学生運動が盛んな時代でした。ですので僕の世代よりも政治に強い関心を抱いていたはずです。ちょうど吉田拓郎さんや井上陽水さんが世に出てきた頃で団塊の世代と言われていました。

団塊の世代は政治に強い関心を持っていたのが特徴で学生運動が盛んでしたが、あさま山荘事件という過激な活動家が起こした悲惨な事件を契機に学生運動は一気に下火になりました。団塊の世代に対して僕らの世代はモラトリアム世代と言われていました。「モラトリアム」とは「猶予」という意味ですが、「結論を先延ばしにする」という意味合いでしょうか。僕らの世代は政治に関心を持っている人はあまり多くはなくテニスとスキーに明け暮れている学生が一般的でした。僕個人的には、テニスとかスキーといったおしゃれなスポーツが似合うタイプではありませんでしたので興味はありませんでしたが…。

団塊の世代を見ていますと、あまりに強く政治に関心を持ちすぎると判断を間違えるような気がします。シリアではイスラム国をあと少しで壊滅できそうですが、そのイスラム国はイスラム教の原理主義者たちが作った組織です。イスラム教に限らずどの宗教でも思想でも社会に対して攻撃的な行動をとっているのは原理主義者の人たちです。本来、宗教は平和のために存在しているはずですので宗教が原因で争いが起こるのは矛盾ということになります。

民族浄化などという悲惨な状況が起きるのも同様で原理主義者の仕業です。ですから、普通の人たちが注意をする必要があるのは原理主義者たちの口車に乗せられないことです。そして、僕は政治的に固まらないことが大切と思っています。優柔不断は悪い意味ですが、政治に関しては優柔不断のほうが平和に貢献するように思えてなりません。

戦争について考えるとき、最初にぶつかる問題はやはり「戦争放棄」です。安倍首相が憲法改正を考えているのも、究極的には「戦争放棄」には必要のない自衛隊の存在を正式に認めたいからです。ですが、なんとしても平和憲法を守りたい人たちには許容できることではありません。そこに対立点が生じます。

平凡なおじさんが普通に考えて、一番の疑問は「戦争放棄」は賛成だけど「攻撃されたらどうするの?」という疑問です。専守防衛とは謳っていますが、どこまでが「防衛」なのかは定かではありません。

また、元稲田防衛大臣が辞任に追い込まれたきっかけにもなったことですが、海外に派遣する条件も曖昧です。実は、それよりも問題だと思っているのは「同盟国が戦っているときに支援をしないこと」の是非です。本当にごく普通の感覚で考えるなら「仲の良い友だちが悪い奴に絡まれているのに助けない」のはどう考えても不誠実のように思います。僕だったら、そんな薄情な友だちとは仲良くしたくありません。それが普通の感覚のはずです。

かつて湾岸戦争のときに海外から「お金だけ出して、血は流さない」と批判されましたが、普通の感覚で考えるなら当然の意見です。このときはまだ世界が日本の平和憲法を賞賛している時代でしたのでお金だけで済みましたが、未来永劫通用するかは疑問です。

もちろん「戦争はいけない」ことは当然です。ですが、攻撃されたなら戦うしか方法はありません。そして、近代の戦争では「攻撃されてから反撃するのは遅い」ということもあり得ます。このような状況の中で「戦争」について考える必要があります。

左系の人たちは「外交努力」という言葉を好みますが、通じない場合のことも想定する必要がありますし、外交努力をするには同盟国の力を借りなければいけないこともあります。そのときに「助けない」で通用するのかも考える必要があります。

このように一口に「戦争反対」「戦争放棄」と言いましても簡単ではないのが現実です。それでもそれでも、戦争が起きないように工夫し努力することがとても大切です。その土台になるのが原理主義者の言葉に惑わされないように柔らかい頭でいることです。

戦争という極限状態に突入してしまいますと、引き返すことは簡単ではありません。また、極限状態では自由が制限されるのが常です。しかし、侵略されてしまってはもっと自由が制限されることになります。そのような最悪な状況にならないために日ごろから戦争について考えておくことは大切です。そのためには政治に関心を持つことが重要です。

この時期のコラムの最後はドラマ『さとうきび畑の唄』で主役を務めるさんまさんが最後に叫ぶ言葉で締めくくります。

「わいは、人を殺すために生まれてきたんやないんや」

じゃ、また。

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posted by satoaki at 14:19 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

<潔さ>

年齢のせいか、朝目覚めるのが早くなっています。夜中にトイレに起きることも多いですが、今日はトイレとは関係なく朝5時頃に目が覚ました。しばらくどんよりしていましたが、何気にテレビをつけますと世界陸上をやっていました。ライブです。
そして、そこに映し出されていたのは、なんとあのボルト選手が負けた映像でした。信じられませんでしたが、はっきりとボルト選手が負けている映像が流れていました。英雄はいつまでも英雄でいられることはできないのですね。どんなに優れた選手でもいつかは負ける日がやってきます。ボルト選手の負ける映像を見ていましたらそんなことを思いました。
人間は、栄光の日々を過ごしているときは自分に余裕がありますので自分を作ることができます。しかし、失意のときは余裕などありませんので本当の自分の姿を晒すことになります。その意味で言いますと、ボルト選手の負け方は素晴らしいものでした。「潔い」という言葉がピッタリの走り方でした。

高校時代、クラブ活動には入っていないのですが、運動能力に優れたK君という人がいました。足も早く、サッカーもうまく、とにかく全体的にスポーツ万能と認められている存在でした。また、K君はギターもうまく休み時間などにはみんなの前で腕前を披露するなど音楽の面でも存在感がありました。しかし、どこの運動部にも音楽クラブにも入っていませんでした。
さらに、K君は手先も器用でコインを見事に操り手品を披露するなどしてみんなの憧れの存在でもありました。また、おしゃれに関しても精通していて着ている服は毎日変えていましたし、着こなしも芸能人に劣らないくらいの感性を持っていました。また立ち振る舞いもスマートでしたし、なによりそうした行為が似合うだけのイケメンでもありました。
このようにほぼ完璧に近い高校生でしたので、今でいうならスーパー高校生といったかんじでしょうか。このようなタイプの人でしたので、やはり目立つことは好きなようで文化祭では舞台の中央で一人ギターを弾いてたくさんの拍手を受けたりもしていました。彼は注目されることが好きなタイプの人でした。
その彼が、体育祭の100m競争に出場することになりました。足が速いのも自慢でしたので、それを披露するつもりがあったようです。中学時代に大会で優勝した経験もあるそうでしたのでかなり自信があったのだと思います。
さて、いよいよ彼の出場する100m走のプログラムになりました。K君以外のメンバーを見ますと、どうみても彼を負かせそうな人はいませんでした。そんな中、ひとり異彩を放っている人がいました。彼の名はS君です。異彩の理由は、超がつくほど真面目な堅物で、そしてガリ勉で、どう考えてもスポーツというか、そもそも「早く走る」というイメージが全く湧かない人でした。身長は平均より少し高いくらいですが、筋肉質な身体でもなくガッシリした体格でもありません。華奢でか細いといった表現が似合うような体格の持ち主でした。100m走に出場することさえ、不思議に思える存在でした。しかし、100m走は自主エントリーなのです。自分で応募しなければ出ることはありません。ということは、S君は自分から出場を希望したことになります。
そして、いよいよK君とS君の出場する組になりました。スタートラインに立ち、腰を屈めピストルの音が鳴るのを待っていました。一瞬の静まりのあと号砲とともに走り出したK君とS君です。やはり思った通りK君の走る姿勢はきれいでした。それに比べS君は、一言で言いますと「ダサい」。これに尽きるフォームでした。誰が見てもその走り方は「変」と思うようなフォームだったのです。例えるとしたなら、そうですねぇ…、あっ、忍者です。忍者が相手に悟られずに走る姿に似ていました。もちろん黒装束も黒い頭巾も身につけていませんが、「相手には悟られないだろうなぁ」という走り方でした。
僕はその走り方が面白かったので笑っていたのですが、50mを過ぎたあたりからレースの雰囲気が変わってきました。レースはスタート直後からK君とS君が飛び出す展開だったのですが、なんと次第にS君が段々と差をつけ始めたのです。そして、5〜6メートルの差をつけてS君が一着でゴールしました。運動場全体から驚きの声が聞こえてきました。
「あの、ガリ勉が…」
そんな声がどこからともなく聞こえてきました。僕もS君に驚かされたのですが、もっと僕の気持ちを引き付けたのはS君と差がつき始めたあとのK君の「走り」でした。K君はかなわないと思った瞬間に走る力を弱めたのです。誰が見てもわかるように、余裕を持って走っているふうを装っていました。たぶん、負けたことが「恥ずかしかった」のと負けを「認めたくなかった」のでしょう。両方の気持ちが混じりあってあのような走り方をしたのだと思います。ですが、僕にはその姿が悲しいものに見えました。

実は、あのときのK君の走り方は僕に大きな影響を与えています。「負け」は認めてこそ意味があります。「負け」を自分で引き受け、受け入れてこそその経験が生きてきます。もし「負け」をごまかして認めず、引き受けずに逃げていてはまた同じ過ちを繰り返すことになります。さらに言うなら、「負けた姿」は無様であればあるほど意義があるとも思っています。

結局、世界選手権の100m走の優勝者はガトリン選手でした。ボルト選手は隣のコースを走っていたコールマン選手にも負け3位でした。ですが、ボルト選手はゴールまで必死に走っていました。僕はボルト選手が頭を突き出し少しでも早くゴールをしようと駆け抜ける姿を見たのは初めてでした。僕が見てきたボルト選手のゴールの姿はいつも流しているように見えるフォームでした。ですから、負けたときに最後まで力を抜かずに、しかも一秒でも早くゴールしようという姿勢に感激したのです。
しかも、レース後のインタビューでも潔さがありました。言い訳など全くせず、「負け」を受け入れていました。その対応にも感激しました。ガトリン選手の優勝について観客がブーイングをしたそうですが、ガトリン選手のドーピングの過去が影響していることは想像に難くありません。ボルト選手はそんなことにはまったく触れず、「負け」を認めました。その潔さが素晴らしいです。

今年5月のWBA世界ミドル級王座決定戦でダウンを奪いながら判定で負けた村田涼太選手は疑惑の判定だったにも関わらず「負け」を受け入れていました。また、先日元WBA世界スーパーフェザー級スーパー 王者内山高志選手が引退を表明しましたが、内山選手もまた「負け」を受け入れる姿が印象的でした。
人間は他人の前では自分を繕いますので、本当の姿を知るのは容易ではありません。秘書を怒鳴りつけ人間性を貶めるような振る舞いをしていた女性の国会議員がいましたが、あの女性議員も公の場所では「いい人ぶって」いました。そのような人が国会議員になっていたのです。本当の姿を知ることはとても大切です。
安倍首相が新しい内閣を発足させましたが、支持率が低下したことが原因です。支持率の低下を本気で認めて受け入れたかどうかは、今後の政権運営でわかります。

じゃ、また。

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posted by satoaki at 14:18 | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする